(葦陽城 広島県福山市 国指定史跡 日本100名城71番)
福山駅に隣接する福山城。空襲を受け多くの古建築を失った福山ながら、筋鉄御門、鐘櫓、そして伏見城から移築したという伏見櫓が残されている。
外周を一周し、福山市埋蔵文化財収蔵庫裏に放置されている五輪塔の残欠が気になりながら本丸に入った。空襲で焼失した五層六階の天守と、二層三階の付櫓が昭和41年(1966)に再現され、福山城博物館となっている。常設展「福山の歴史と文化」のほか、このときは「いしぶみの拓本展」が催されていた。また、博物館の付随施設として昭和48年(1973)に鏡櫓が再現され、文書館となり、資料の整理等が行われている。
本丸南側には鐘櫓、伏見櫓のほか、本丸天守と共に再現された月見櫓と伏見城が移築したという御湯殿がある。また、二の丸西坂口門から下りると、いたるところに未修復の石垣が散乱していた。続いて、三の丸跡に建つ、広島県歴史博物館見学の後、藩主阿部氏臣内藤家の移築長屋門を見学した。
福山城の築城は遅く、元和五年(1615)に松廼尾山と常興寺山を切り離して独立した丘をつくり、廃城となった伏見城や神辺城の材料も用いて築城され、十万石で大和郡山から水野勝成が入った。四代水野勝種の死後、勝岑が出生間もなく藩主となったが、翌年早世したため無嗣除封となった。元禄十三年(1700)出羽山形より松平忠雅が入るが、宝永七年(1710)伊勢桑名に移封する。そして下野宇都宮より阿部正邦が入り、以後九代阿部氏が続き廃藩を迎えるが、阿部氏は江戸詰の藩主であったという。
福山駅に隣接する福山城。空襲を受け多くの古建築を失った福山ながら、筋鉄御門、鐘櫓、そして伏見城から移築したという伏見櫓が残されている。
外周を一周し、福山市埋蔵文化財収蔵庫裏に放置されている五輪塔の残欠が気になりながら本丸に入った。空襲で焼失した五層六階の天守と、二層三階の付櫓が昭和41年(1966)に再現され、福山城博物館となっている。常設展「福山の歴史と文化」のほか、このときは「いしぶみの拓本展」が催されていた。また、博物館の付随施設として昭和48年(1973)に鏡櫓が再現され、文書館となり、資料の整理等が行われている。
本丸南側には鐘櫓、伏見櫓のほか、本丸天守と共に再現された月見櫓と伏見城が移築したという御湯殿がある。また、二の丸西坂口門から下りると、いたるところに未修復の石垣が散乱していた。続いて、三の丸跡に建つ、広島県歴史博物館見学の後、藩主阿部氏臣内藤家の移築長屋門を見学した。
福山城の築城は遅く、元和五年(1615)に松廼尾山と常興寺山を切り離して独立した丘をつくり、廃城となった伏見城や神辺城の材料も用いて築城され、十万石で大和郡山から水野勝成が入った。四代水野勝種の死後、勝岑が出生間もなく藩主となったが、翌年早世したため無嗣除封となった。元禄十三年(1700)出羽山形より松平忠雅が入るが、宝永七年(1710)伊勢桑名に移封する。そして下野宇都宮より阿部正邦が入り、以後九代阿部氏が続き廃藩を迎えるが、阿部氏は江戸詰の藩主であったという。