(静岡県掛川市掛川 1982年6月30日)
袋井から東隣の掛川に訪れる。まちは整備途中なのか、歩道にあたる部分が所々舗装されておらず、これからという感じが漂っていた。旧東海道を横切ると間もなく掛川城に辿り着く。堀として使われた逆川を渡ると、左手には三の丸跡に建つ無機質な市役所があり、右手には旧三の丸東南隅櫓(太鼓櫓)がある。そして、かつて天守があった場所には、コンクリートブロックで固められた天守台に、日露戦争戦勝観世音菩薩像(終戦後は平和観世音像に改称)が建っていた。(逆川)
(旧三の丸東南隅櫓:太鼓櫓)
(三の丸跡に建つ市役所)
(霧噴井戸)
(掛川城天守台)
(天守台に建つ平和観世音像)
(天守台より北門方面を望む)
掛川城は文明年間(1469-87)今川義忠臣朝比奈泰煕(やすひろ)が子角山(ねずみやま:掛川古城:大猷院殿霊屋)に築城したのが始まりである。永正年間(1502-20)に現在地に移転し、古城は出城となった。永禄十一年(1568)朝比奈泰朝のとき、徳川勢に攻められ今川氏真と泰朝は、相模小田原へ退去し、代わって掛川城には石川家成・康通親子が入った。天正十八年(1590)家康が関東に移封すると、掛川城には豊臣秀吉臣であった山内一豊が五万一千石で入り、掛川城の拡張を実施した。然し、関ヶ原の戦い後は、土佐高知に転封となっている。(天守台より掛川古城・霊屋を望む)
(大猷院殿霊屋)
明暦二年(1656)北条氏重のとき、三代将軍徳川家光(大猷院殿)の霊牌を祀るために霊廟を掛川古城跡に建立した。現存する建物は文化十五年(1818)に火災で焼失し、文政五年(1822)に再建されたものである。また、一昨年解体修理され、現在は隣接して管理人が居住している。(重文 掛川城二の丸御殿 文久元年)
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