(愛媛県松山市 国指定文化財 1990年4月14日)
父にとって馴染みの地でも、私にとっては初めての地である。
標高132mの勝山山頂へは徒歩で向かう。この日は四月中葉とはいえ、最高気温が30℃を超す真夏日であり、汗をかきつつ登った。
松山城は加藤嘉明により慶長七年(1602)に築城されたが、完成間もなくして嘉明は陸奥会津に転封、寛永四年(1627)からは出羽上ノ山蒲生忠知が入った。
寛永十二年からは伊勢桑名から松平(久松)定行が入り、以後松平家十四代が廃藩まで続いた。
天守は安永八年(1779)に落雷で焼失、安政元年(1884)に周辺建物も含め再建された。
廃藩後の大正12年(1923)に久松家から松山市に城郭を寄贈。昭和10年(1935)に国宝に指定され、その後放火や空襲で小天守や太鼓櫓、筒井門等一部建物を焼失したが、昭和41年度から木造による再現が開始され、今に続いている。
松山城を後にし、一遍出生地、道後湯月町寶厳寺へ向かう。
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(長野県上水内郡信濃町野尻 2003年4月13日)
眼下に見下ろす移動しながらの夜景、遠ざかったり近づいたり… 銀河鉄道が如きであった。
早朝信都に到着。天候の回復が遅れていた。付近は、春の気候となっていたが、そこから信越線普通列車三十分で冬へと逆戻りした。
美しい黒姫に魅せられた池の主黒竜は、若武者に姿を変え、姫の前に現れた…という伝説が残る信濃町黒姫に到着。辺りは四月中葉というのに白一色。霧が立ち込め視界数十メートルであった。そして水の流れる方向へと足を進め、やがて霧の野尻湖が見え始めた。霧の間から太古の象が出現するのでは..という夢幻の境地が似合う辺りの光景は、この場所の歴史の深さを現す演出にも思えた。1962年から行われている湖底の発掘調査は今でも続けられていて、博物館には2~40万年前に生息していたナウマンゾウの化石や、「野尻湖人」と呼ばれる時代の旧石器等が展示保存されている。
時間が経つにつれ晴れはしないものの、霧は取れ始め、辺りの色彩が明確になってきた。
高原方面も足を運ぼうと考えていたが、山手の方は依然、紗に包まれて今日の訪れを躊躇っているようであった。
気候状況に任せ、信都長野へ戻ることとした。
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(伊香郡木之本町)
冬の間に訪れようと考えていたが、春先までずれ込んでしまった。
四月初旬とはいえ、西濃、湖東地方よりも明らかに気温が低い。
木之本は北国街道の宿場町であり、関ヶ原へ抜ける北国脇往還が分かれる町。
隣宿長浜とは趣の異なる町である。時宗長祈山浄信寺や浄土真宗寶樹山明楽寺等が建ち、羽柴秀吉と柴田勝家の戦いが行われた賤ヶ岳が聳える。
駅を降り「地蔵坂」を上ると、右手に「轡の森」がある。
秀吉が木之本に駆けつけたとき、馬がこの地で息絶えたので哀れんで埋葬し、鞭を墓標としておいたところ、後に鞭から芽を出しイヌザクラの大木となったのだという。
往時の風情を随所に残す町並み。近江と若狭と美濃の雰囲気を含んだ感じであろうか。
北陸線の直流電化区間延長によって、南西部からの直通列車が増えた。それに伴い駅舎の移転が行われ、新旧並んで建っている。
観光の案内全般に関しては、些か不親切なところがある。まだ、観光に対しての慣れが少ないためかと理解しておこうと思う。
然し、生活感の感じる風情は、時折訪れる地として良いと感じた。
大萱古窯から久々利川を下り、可児市郷土歴史館、千村氏屋敷跡、そして久々利城跡を巡る。
久々利城は暦応年間(1338~41)または応永二年(1395)土岐頼貞孫康貞によって築かれた城。土地の名を取り久々利氏と改められ、康頼、行春、春頼、頼忠、頼興と続いた。
久々利氏は末期、斎藤氏に属し、天文十七年(1548)頼興が金山城主斎藤正義を討ち織田氏臣となったが、天正十一年(1583)頼興は織田氏臣森長可によって討死した。その後、森氏臣戸田勘左衛門が久々利城を守ったが、慶長五年(1600)森氏が信濃松代へ移封となり、廃城となった。
翌年、城跡の一部を利用し、千村良重によって凡そ24,000坪の陣屋が構えられた。
千村氏は、木曽氏裔で関ケ原功により四千四百石の旗本となり、幕末まで続いた。
久々利城跡には山の斜面に連郭式の遺構、堀及び堀切、土塁、井戸が残り、千村陣屋は石垣及び隅櫓跡が残る。
続いて「久々利」の由来ともいわれる景行天皇行在所詠宮(くくりのみや)跡、身隠山古墳、熊野古墳を巡った。
亡き父とは訪れることのなかったこの地。
そして我が家が慶長九年(1604)から万治二年(1659)まで居住した拝志の地。
頓田川沿いの地であるため、その洪水によって悩まされたところである。よってその後我が家も町谷の地に転居した。
東村の名は拝志の東側に位置することから、こう呼ばれるようになった。
東村の南には白鳳元年(672)に越智守興により創建された眞光寺(新興寺・新光寺)がある。
南北朝の頃、細川頼春がこの寺に進駐して、新田義貞の甥大館氏明らの「首実験」(敵方の斬った首を見て人物を見極める行為)をしたといわれている。
崇峻天皇二年(589)に勧請された三嶋神社の近くには、その氏明の首塚がある。
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特に出先での移動中や滞在中において、必ず私の周りに、よその子どもたちが入れ替わり立ち替わり寄ってくる時期、次に非常識な人間が入れ替わり立ち替わり寄ってくる時期、そして一つ変わっているのが、移動中終始横で基礎からメイクする女性。30分から2時間くらいに及ぶ変貌を見させられる時期。
それらは同行者がいる場合、遭遇しなくなる。
これは一体なんだろう?
前世の因縁?
守護霊の影響?
いずれにせよ、未熟で非社会的な者たちを遭遇させられているわけである。
同じく未熟な私に対しての目に見えぬ作用であろうか。
(武田勝頼陣地 愛知県新城市長篠)
天正三年(1575)長篠の戦いの際、永正十一年(1514)創立の長篠山医王寺後方に設けられた武田軍の陣砦。武田勝頼、甘利信康、跡部勝資、小山田信茂ら三千人が陣を敷いていた。
私がこの辺りを訪れ始めた頃には、鬱蒼とした山に、道も今の様に整備されておらず、物見櫓も再現されていなかったが、現在は道も整備され、樹木がある程度切り取られ、郭等の遺構も確認し易くなった。然し更に後方の郭等は、以前にも増して確認し辛い状態となっていた。麓の弥陀池と片葉の葦の光景は今も昔も変わらずにあるが、寺院庫裏二階にあった民俗資料館が別棟として設けられ、少しずつ変化がみられる。
医王寺山の南西の天神山には二千人、南東の大通寺山には二千人の陣地が設けられ、対岸の乗本鳶ヶ巣山、姥ヶ懐、君ヶ伏床、中山、久間山に合わせて一万五千の兵を置き、元武田氏臣で徳川方奥平信昌守る長篠城を包囲したのである。
(愛知県豊橋市石巻本町)
昭和53年頃、豊橋市の古城跡で初めて訪れた高井城の後、この辺りを散策した。
豊川の支流、岡見沢川(馬越川)を下流から遡ると、やがて権現山とこの城跡の丘陵の間を抜ける。
木に囲まれた暗い谷あい、私の父はその場でアニメ、ムーミンに出てくる「おさびしやま」とネーミングしたことを思い出す。そんな光景の場所であった。
その沢沿いの小径も、今は草木で覆われ、自然へと還っていた。また、当時出来上がったばかりであった「せと橋」というガードレール欄干の橋も錆び、コンクリートは欠け、時代の移ろいを感じさせた。
和田城は嵯峨城というとも、また別の城であるともいわれる城である。更には近隣の和田村高井城 と混同される場合もある。
南北朝時代、楠木氏族とも考えられる(或いは牧野氏か)和田民部と、戦国時代には渡辺久左衛門、その子助清が居城したという。この渡辺氏は、嵯峨源氏渡辺氏と関連があるのであろうか。
また、南朝史学会の説によると、和田城は三河守青木和田尉盛勝、嵯峨城は長慶天皇玉川御所の隠し城としている。
現行の小字として、城跡の字嵯峨の南隣を字御所と呼んでいる。(和田池、椙本八幡神社付近)
城跡の一部に建つ、永禄九年(1566)渡辺助清創建の春興院の北側には、堀が東西に延び、途中北側へ垂直に延びる堀と土塁がみられる。東西の堀を東に向かうと、堀に沿って低い土塁が現れ、郭の形状を成し始める。更に東に向かうと、土塁に挟まれた堀が設けられ、その東側は郭を成している。更に東側は道路となっているが、道路の東側に堀割のような痕跡がみられ、道路が堀であったことも考えられる。
現状を見る限りでも馬越川に沿った東西に長い連郭式城郭であったことがわかるが、和田城と嵯峨城、玉川御所を、隣接する別の存在のものであったとすると、この部分は広大な遺跡の一部に過ぎないのかもしれない。因みに城跡周辺は、弥生時代の遺跡でもある。
(春興院北側堀、土塁)
(中央部郭)
(中央郭、東側郭間堀、土塁)
(東側郭堀、土塁)
(市道道路東堀割)
(前回踏査’90.11.18時点縄張図)
大通寺は達磨山と号し、応永十八年(1411)に真言宗鳳来寺末として開山したという。
天正三年(1575)長篠の戦いの際、境内地及び土岐氏裔長篠氏の砦があったとされる背後の大通寺山に武田軍武田信豊、小山田昌行、馬場信春ら二千人の陣地が構えられた。
斜面には「杯井」といわれる清水があり、武将たちが出陣の際、訣別の杯を交わしたという。上方には文政十年(1827)に建てられた「盃井碑」がある。
長篠の戦いによる兵火で寺は荒廃したが、後に曹洞宗医王寺末として再興され、現在に至っている。
大通寺からは、同じく武田軍が陣を構えた対岸の鳶ヶ巣山が望められる。
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