(国指定史跡 日本100名城62番 2003年3月29日)
和歌浦を後にし、桜もまだ蕾の和歌山城公園へと向かう。
虎伏山に築かれた丘城、和歌山城は天正十三年(1585)に豊臣秀吉が築城したことに始まる。初代城代は賤ヶ岳の功で三万石を与えられた但馬竹田の桑山重晴で、続いて孫の一晴が居城した。慶長六年(1601)桑山一晴は大和新庄に移封し、変わって甲斐府中から三十七万石で浅野幸長が入った。元和五年(1615)幸長の弟、長晟(ながあきら)は安芸広島へ転封し、徳川家康十男頼宣が五十五万石で入り、紀州徳川家となった。
明暦元年(1655)と文化十年(1813)の火災により西の丸、二の丸を焼失。弘化二年(1846)には落雷によって天守を含む建物を焼失したが、嘉永二年(1650)に天守は再建された。その天守も廃藩の際解体を免れたが、昭和20年の空襲で焼失した。現在の天守は昭和33年(1958)に再現されたものである。
(寿司由楼)
元々、和歌浦で寿司屋を営んでいた料理旅館である。
大正時代に創業以来、10数回の増築を重ね、複雑な構造を成していた。
消防署から防火設備に関する注意を受けながらも、そのまま営業し、 1971年1月2日夜に火災が発生、木造旧館宿泊客16名の死者を出している。
翌年、ボーリング場併設の全館耐火構造ホテルとして生まれ変わった。然し、レジャーの多様化と団体旅行の減少、そして過去の出来事により、廃業の道を辿ったのである…。
そして2005年5月をもって北村荘と同じ運命を辿ることとなった。
付近の海岸には多数の旅館が肩を並べているが、その殆どが閉鎖されていて、傾いた日差しと影、潮風による風化、斜陽の言葉を思い浮かべる光景が広がっていた。
(HP版:http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/sushiyoshirou.htm)
元々、和歌浦で寿司屋を営んでいた料理旅館である。
大正時代に創業以来、10数回の増築を重ね、複雑な構造を成していた。
消防署から防火設備に関する注意を受けながらも、そのまま営業し、 1971年1月2日夜に火災が発生、木造旧館宿泊客16名の死者を出している。
翌年、ボーリング場併設の全館耐火構造ホテルとして生まれ変わった。然し、レジャーの多様化と団体旅行の減少、そして過去の出来事により、廃業の道を辿ったのである…。
そして2005年5月をもって北村荘と同じ運命を辿ることとなった。
付近の海岸には多数の旅館が肩を並べているが、その殆どが閉鎖されていて、傾いた日差しと影、潮風による風化、斜陽の言葉を思い浮かべる光景が広がっていた。
(HP版:http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/sushiyoshirou.htm)