(1990年4月3日 可児市久々利)
大萱古窯から久々利川を下り、可児市郷土歴史館、千村氏屋敷跡、そして久々利城跡を巡る。
久々利城は暦応年間(1338~41)または応永二年(1395)土岐頼貞孫康貞によって築かれた城。土地の名を取り久々利氏と改められ、康頼、行春、春頼、頼忠、頼興と続いた。
久々利氏は末期、斎藤氏に属し、天文十七年(1548)頼興が金山城主斎藤正義を討ち織田氏臣となったが、天正十一年(1583)頼興は織田氏臣森長可によって討死した。その後、森氏臣戸田勘左衛門が久々利城を守ったが、慶長五年(1600)森氏が信濃松代へ移封となり、廃城となった。
翌年、城跡の一部を利用し、千村良重によって凡そ24,000坪の陣屋が構えられた。
千村氏は、木曽氏裔で関ケ原功により四千四百石の旗本となり、幕末まで続いた。
久々利城跡には山の斜面に連郭式の遺構、堀及び堀切、土塁、井戸が残り、千村陣屋は石垣及び隅櫓跡が残る。
続いて「久々利」の由来ともいわれる景行天皇行在所詠宮(くくりのみや)跡、身隠山古墳、熊野古墳を巡った。
大萱古窯から久々利川を下り、可児市郷土歴史館、千村氏屋敷跡、そして久々利城跡を巡る。
久々利城は暦応年間(1338~41)または応永二年(1395)土岐頼貞孫康貞によって築かれた城。土地の名を取り久々利氏と改められ、康頼、行春、春頼、頼忠、頼興と続いた。
久々利氏は末期、斎藤氏に属し、天文十七年(1548)頼興が金山城主斎藤正義を討ち織田氏臣となったが、天正十一年(1583)頼興は織田氏臣森長可によって討死した。その後、森氏臣戸田勘左衛門が久々利城を守ったが、慶長五年(1600)森氏が信濃松代へ移封となり、廃城となった。
翌年、城跡の一部を利用し、千村良重によって凡そ24,000坪の陣屋が構えられた。
千村氏は、木曽氏裔で関ケ原功により四千四百石の旗本となり、幕末まで続いた。
久々利城跡には山の斜面に連郭式の遺構、堀及び堀切、土塁、井戸が残り、千村陣屋は石垣及び隅櫓跡が残る。
続いて「久々利」の由来ともいわれる景行天皇行在所詠宮(くくりのみや)跡、身隠山古墳、熊野古墳を巡った。