(愛知県新城市杉山字荒井 市指定史跡 1990年11月13日踏査)
豊橋鉄道運転教習施設の一角、周囲が削られた杉山台地の名残を見せる部分がある。この頂が荒井古墳であり、高さ約1mの低い古墳であるが、古くから狐塚と呼ばれる古墳である。
豊橋鉄道運転教習施設の一角、周囲が削られた杉山台地の名残を見せる部分がある。この頂が荒井古墳であり、高さ約1mの低い古墳であるが、古くから狐塚と呼ばれる古墳である。
(桜井古墳群 愛知県安城市姫小川町姫 市指定史跡 1990年10月27日再踏査)
戦時中の開墾の際に陥没を起こし発見されたものであり、地下に土壙を持つ、古墳時代後期の墳墓である。2室あって、一つは6m×2m,高さ1.5m,もう一つは、2m×2mの規模のものである。
戦時中の開墾の際に陥没を起こし発見されたものであり、地下に土壙を持つ、古墳時代後期の墳墓である。2室あって、一つは6m×2m,高さ1.5m,もう一つは、2m×2mの規模のものである。
(岐阜市柳津町本郷二丁目)
浄土真宗聖徳山光沢寺周辺は、文亀年間(1501-03)竹腰摂津守が築いた城が存在した。往時は木曽川の分流が網目状に流れ、天然の防御を備える環境であった。弘治二年(1556)摂津守は、長良川の戦いで、斎藤道三と共に討死している。その後、摂津守の叔父である竹腰(成吉)尚光が城主となった。
(柳津町記事:楊津御厨跡 柳津のみち 美濃柳津 神霊氏神龍神 岐阜市柳津町合併記念碑)
(桜井古墳群 愛知県安城市姫小川町姫 市指定史跡 1990年10月27日再踏査)
古墳時代後期の古墳であり、直径25m、高さ3.6mを計る。孝徳天皇二年(646)摂津国難波宮からこの地に乳母と共に流れ着いた皇女綾姫は、この地で生涯を送り、没したと伝え、この古墳はその綾姫の墳墓とされる。後世に建てられた「白鳳十年(682)六月二十四日 姫宮墓」と刻む石塔や、宝筐印塔の一部、一石五輪塔が墳頂にある。
古墳時代後期の古墳であり、直径25m、高さ3.6mを計る。孝徳天皇二年(646)摂津国難波宮からこの地に乳母と共に流れ着いた皇女綾姫は、この地で生涯を送り、没したと伝え、この古墳はその綾姫の墳墓とされる。後世に建てられた「白鳳十年(682)六月二十四日 姫宮墓」と刻む石塔や、宝筐印塔の一部、一石五輪塔が墳頂にある。
(桜井古墳群 愛知県安城市姫小川町姫 国指定史跡 1990年10月27日再踏査)
碧海台地端の浅間神社境内には、前方後円墳の姫小川古墳が存在する。古墳時代前期の4世紀後半の築造であり、全長66m,社殿の建つ後円部の高さは9mを計る。
碧海台地端の浅間神社境内には、前方後円墳の姫小川古墳が存在する。古墳時代前期の4世紀後半の築造であり、全長66m,社殿の建つ後円部の高さは9mを計る。
(古井遺跡群 愛知県安城市桜井町二タ子 市指定史跡 1990年10月27日)
二子古墳の東側、矢作川によって形成された、碧海台地の付け根に位置する遺跡である。一帯は、矢作川に沿って長く連なる古井遺跡群を形成している。昭和36年(1961)東海道新幹線建設に伴い、発掘調査が行われた。それにより、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての、住居跡や遺物が検出された。
(愛知県豊橋市牛川町西側)
牛川地区土地区画整理事業に伴い、平成14年、15年度に牛川地区各遺跡の発掘調査が行われた。西側遺跡も、弥生時代中期以降の遺構や遺物及び貝層が検出され、とよがわ沿いの豊かな営みが明らかになった。調査から時間を経ても、まだ柱穴等の痕跡が残るが、間もなく行われる区画整理によって、大きく光景が変わることであろう。
牛川地区土地区画整理事業に伴い、平成14年、15年度に牛川地区各遺跡の発掘調査が行われた。西側遺跡も、弥生時代中期以降の遺構や遺物及び貝層が検出され、とよがわ沿いの豊かな営みが明らかになった。調査から時間を経ても、まだ柱穴等の痕跡が残るが、間もなく行われる区画整理によって、大きく光景が変わることであろう。
(桜井古墳群 愛知県安城市桜井町印内・二タ子 国指定史跡 1990年10月27日)
碧海山古墳から、桜井の地に差し掛かる。矢作川により形成された洪積台地の縁に位置し、前方後方墳(埋葬部が円墳ではなく、方形墳)であり、全長81m(※踏査時),高さ10m,造り出し(祭祀場所)を持ち、周濠、埴輪を有する4世紀の古墳である。
碧海山古墳から、桜井の地に差し掛かる。矢作川により形成された洪積台地の縁に位置し、前方後方墳(埋葬部が円墳ではなく、方形墳)であり、全長81m(※踏査時),高さ10m,造り出し(祭祀場所)を持ち、周濠、埴輪を有する4世紀の古墳である。
(愛知県豊橋市下条西町・牛川町)
豊川(とよがわ)の遊水池(増水時の一時氾濫場所)である神田川河口は、隣接する牛川地区土地区画整理事業の兼ね合いから、長らく放置状態にあった。区画整理に伴う埋蔵文化財の発掘調査が済み、区画整理の工事が開始されたため、河口の工事及び新河口内の県道付け替え工事が開始された。県道の新橋橋脚が造られたということは、旧橋下野橋の最期も近い。その下野橋に隣接して架かる神田川橋は、昭和初期に下条水源地から小鷹野浄水場に至る上水道設置時に架橋されたもので、近隣の大江川橋と並び歴史ある橋である。また、真っ直ぐ流れていた河口部の流路は、増水時の水勢を考慮し、蛇行水路に改めてられている。
(神田川橋)
(下野橋)
豊川(とよがわ)の遊水池(増水時の一時氾濫場所)である神田川河口は、隣接する牛川地区土地区画整理事業の兼ね合いから、長らく放置状態にあった。区画整理に伴う埋蔵文化財の発掘調査が済み、区画整理の工事が開始されたため、河口の工事及び新河口内の県道付け替え工事が開始された。県道の新橋橋脚が造られたということは、旧橋下野橋の最期も近い。その下野橋に隣接して架かる神田川橋は、昭和初期に下条水源地から小鷹野浄水場に至る上水道設置時に架橋されたもので、近隣の大江川橋と並び歴史ある橋である。また、真っ直ぐ流れていた河口部の流路は、増水時の水勢を考慮し、蛇行水路に改めてられている。


(桜井古墳群へっかいざん古墳 愛知県安城市桜井町干地 市指定史跡 1990年10月27日再踏査)
堀内貝塚からこの地に差し掛かる。4世紀の古墳であり、直径22m,高さ4mの円墳である。竪穴式石室であったとみられるが、明治時代に瓦をつくるために墳頂部を採土したため窪んでいる。
堀内貝塚からこの地に差し掛かる。4世紀の古墳であり、直径22m,高さ4mの円墳である。竪穴式石室であったとみられるが、明治時代に瓦をつくるために墳頂部を採土したため窪んでいる。