(愛知県豊川市千歳通四丁目 市指定史跡)
牛久保城主である牧野成定は、永禄八年(1565)家康が吉田城を攻めた際、酒井忠次と共に今川方の説得をし、無血開城させている。その翌年、成定は四十二歳で病没した。
墓碑は貞享元年(1684)に成定の曾孫である、大垣城主戸田釆女正(うねめのしょう)の妻になった人物により建てられ、石燈籠は寛政八年(1796)越後長岡牧野忠精(ただきよ)が建立したものであり、鞘堂は昭和50年(1975)牧野公奉賛会の手によって建立されたものである。
牛久保城主である牧野成定は、永禄八年(1565)家康が吉田城を攻めた際、酒井忠次と共に今川方の説得をし、無血開城させている。その翌年、成定は四十二歳で病没した。
墓碑は貞享元年(1684)に成定の曾孫である、大垣城主戸田釆女正(うねめのしょう)の妻になった人物により建てられ、石燈籠は寛政八年(1796)越後長岡牧野忠精(ただきよ)が建立したものであり、鞘堂は昭和50年(1975)牧野公奉賛会の手によって建立されたものである。