(京都市下京区仏光寺通烏丸西入ル)
享保元年(1716)摂津国で生まれた俳人・画家である。二十歳のとき江戸に出て俳諧を学んだ。その後、松尾芭蕉に憧れ陸奥国を旅している。そして、四十二歳のとき京都に移り住み、天明三年(1784)六十八歳で生涯を終えている。
(広島県竹原市本町)
竹原の町並みに、昭和5年(1930)に築造された、木造二階建ての洋館である。かつてこの場所には、医師であり学問所を開いていた塩谷道碩(しおたにどうせき)の屋敷があった。道碩の死後、頼春水(らいしゅんすい:頼山陽の父)が道碩の志を受け継ぎ、寛政五年(1793)竹原書院という郷塾を開いた。然し、文化十年(1813)火災で焼失した。明治43年になって、社団法人竹原書院として再興。現在残る洋館を建設する際に、町立竹原書院図書館となった。昭和47年(1972)図書館は市内中央に移転。昭和55年(1980)からは、歴史民俗資料館として利用されている。
(静岡市駿河区登呂)
(環境依存文字 芹澤(金偏に圭)介 一部のPC、携帯電話では、()内が文字化けします)
染色工芸家で人間国宝であった芹澤介は、明治28年(1895)静岡市に生まれた。琉球の紅型(びんがた)の影響を受け、模様、植物、動物、人物、風景をモチーフとした着物、帯、暖簾、屏風、本の装丁、カレンダー、ガラス絵等を手掛けた。昭和59年(1984)に没し、正四位勲二等瑞宝章が贈られている。住宅兼工房は仙台の板蔵を東京鎌田に移築改造したもので、木造2階建、建築面積106㎡である。昭和62年(1982)出生地である静岡の芹沢介美術館内に移築された。
岐阜バス「おぶさ」行きに乗る度に?と思うことがある。それは、バス車内の案内表示に「ながらほった Nagara Hotta」と出るからである。録音アナウンスや運転士は「ながらほりた」と言っている。正式な地名の読みは、岐阜市堀田町(ぎふしほりたまち)である。この読みの違いはバス会社側は把握しているようだが、そのまま放置されている。ちなみに、市内には加納堀田町(かのうほったちょう)がある。
(静岡市駿河区登呂 国指定特別史跡)
静岡県を代表する弥生時代遺跡の一つである。昭和18年(1943)軍事施設建設の際発見されたもので、地下凡そ1mから、水田跡、住居跡、木器が見つかった。調査の結果、弥生時代後期の遺跡であることが分かった。辺りは安倍川の伏流水により自噴する水が見られ、稲作に適した地であることが分かる。
(一畑(いちばた)電気鉄道)
出雲大社前駅から「ばたでん」に乗り、松江に向かった。出雲大社前駅は、大社線出雲神門駅として昭和5年(1930)に開業し、現在は国指定登録文化財、近代化遺産に指定されている。平成21年までは、現在出雲神門駅に留置されている、昭和3年の電化時に導入されたデハニ50形電車も使用されていた。この車両は映画「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」で使用された。一畑電鉄は元々、山陰線出雲今市(出雲市)から一畑薬師最寄り駅である一畑を結ぶために敷設された。その後、出雲大社前~川跡(かわと)間の大社線、一畑~北松江(現松江しんじ湖温泉)間の北松江線が敷設された。
(出雲大社前駅)
(3000系 元南海21000系)
(デハニ50形)
(川跡(かわと)駅)
(出雲大社前⇔川跡3000系・電鉄出雲市行2000系・松江しんじ湖温泉行3000系)
(宍道湖)
(関連記事:出雲市駅 出雲大社 宍道湖 松江)