(神奈川県海老名市国分 国指定史跡)
天平十三年(741)聖武天皇の詔によって、日本各地に建てられた国分寺の一つである。相模国分寺は、今は流れの変わった逆川沿いの丘陵上(相模野台地)に造られ、東側に金堂、西側に塔、北側中心部に講堂を配して周囲を中門及び回廊で囲む「法隆寺式」と呼ばれる方式をとっている。然し、回廊の築堤は残っていない。調査によって、国分寺北側に僧坊跡及び建物跡が検出され、瓦は三浦半島や町田市の瓦尾根瓦窯、神奈川県西部の松田町からさわ瓦窯等で焼成されたものと推定されている。
(塔跡復元基壇)
(金堂跡礎石)
(僧坊跡)
(講堂跡)
(南北朝時代再興の現国分寺)
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(三条会館ビル 奈良市角振町)
奈良三条通沿いに建つ、RC造三階、延床面積約300㎡の銀行建築である。大正10年(1921)に築造されたが、大正15年前後の同銀行不正事件により銀行は営業停止となり、昭和4年(1929)からは個人の所有となっている。その後は保険会社支店として使用され、昭和35年(1960)からは、奈良市三条公民館となった。昭和48年(1973)からは飲食店等に使用されてきたが、老朽化が進んだため解体が予定されている。(写真は2011年5月)
(山口県岩国市横山)
横山の麓、岩国城内に鎮座する神社である。祭神は菊理媛神(きくりひめのかみ)である。社伝によると、正一位白山大権現社は、貞観十八年(876)に勧請、元慶八年(884)社殿を建立とある。その後、応安(1368-75)に社殿の一切を焼失するも、喜慶二年(1389)再建している。慶長五年(1600)吉川広家が当地に移封し、封内の鎮守とした。明治23年(1890)神殿、拝殿、回廊、楼門等を焼失したが、明治31(1898)に完再建、然し、平成16年に拝殿を再び焼失し、翌年再建されている。
(クロマツ)
(熊本県阿蘇市黒川)
かつて、中岳噴火口(神霊池)へ向かう者は心身を清めてから登山する慣わしがあったという。阿蘇山上神社裏手より噴火口に至る道は、昔は唯一の火口への道であったとされ、必ずこの橋を渡らなければならなかったという。
昔、左京某と云う武士がこの橋を渡ろうとしたところ、子蛇が橋の袂におり、左京某の行く手を阻んだ。左京某は不届きな奴とばかりに刀を抜いて斬り捨てようとしたが、忽ち雲が涌き風が起こり、一匹の龍となって天に昇っていった。さすがの左京某もこのことに恐れをなし、それが原因で早死にしたという。以来この橋を左京ケ橋と呼ばれるようになったという。また、心悪しき人が渡ろうとすると目の前の岩が大蛇に見え、渡ることができないという。
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(奈良街道 京都府綴喜郡井出町多賀)
大和街道は奈良と京都を結ぶ街道である。京街道とも呼ばれる。
近年は山辺の道に繋がる古道として、「山背(やましろ)古道」と呼ばれ、経路整備が進められている。
この多賀の地は、標高429mの大焼山と木津川の間に位置する地区である。
天平三年(731)に橘諸兄(たちばなのもろえ)が玉津岡(井出町内)から当地に遷座したという高神社。
(南谷川)
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(山口県岩国市横山 日本100名城74番)
錦川に架かる錦帯橋を渡ると、岩国城の城地となる。
慶長五年(1600)関ヶ原で敗れた毛利輝元は、広島城から萩城に減封となり、一族である吉川広家も米子城から岩国に三万石で転封となった。八年の歳月をかけ、横山の麓には居館の「土居」と、標高216mの山頂には「横山城」が築かれ、四重六階の天守が築造された。しかし、元和元年(1615)一国一城令により破却され城は廃されたが、麓の土居のみ岩国陣屋として使用され、吉川家十三代で明治維新を迎えた。城内には、鎮守とした白山比神社や、藩主吉川家の祖を祀る吉香神社が鎮座する。
(三代藩主吉川広嘉と佐々木小次郎銅像)
(県重文 岩国藩家老 香川家長屋門 元禄六年)
(県重文 吉川家厩門) (錦雲閣)
明治18年(1885)居館「土居」跡が吉香(きっこう)公園として開園し、櫓を模した錦雲閣が建てられた。また、寛政五年(1793)に建てられた昌明館(七代経倫(つねとも)の隠居所)の長屋門が現存している。 昭和37年(1962)には、元来の天守跡の南側にRC造りの復興天守が建てられた。平成7年には、旧天守台が調査後修復されている。
(旧天守台)
(復興天守と天守台)
(堀)
(横山斜面)
(重文 吉香神社)
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(名古屋鉄道本線 岐阜市加納南広江町)
加納駅、名鉄岐阜駅1.1kmの間、加納駅から僅か250mの距離に位置した広江駅は、二両分のプラットホームの一部だけが残っている。
中山道加納宿跡に程近い場所に、大正3年(1914)美濃電気鉄道笠松線の始発駅として開業したが、間もなく新岐阜駅が開業し、途中駅となった。昭和19年(1944)に休止された安良田町駅が、昭和33年(1958)加納駅として復活し、広江駅は一部の列車のみが停車する駅となり、 昭和43年(1968)廃止された。
(浄土宗荻原山大雄院海蔵寺 愛知県幡豆郡吉良町荻原字大道通 1982年6月)
吉良町公民館、役場、尾崎士郎生家を訪れた後、海蔵寺を訪れた。
海蔵寺は文明二年(1470)幡豆郡善明村(西尾市善明町)に創建されたのが最初である。その後、現在地に程近い荻原村細畑に移転、寛永十八年(1641)現在の地に移転した。山門は元文四年(1739)、本堂は明和六年(1769)に建てられたものである。
(熊本県阿蘇市黒川)
噴火口は古来より神霊池として崇められ、、阿蘇神社三柱、建磐龍命(たけいわたつのみこと)、阿蘇都比売命(あそつひめのみこと)、彦御子命(ひこみこのみこと)が祀られている。社伝によると、「欽明天皇十四年(552)阿蘇山火起りて天に接す。阿蘇宮の中三社を祀り、社家の内笠忠久をして奉仕せしむ。これを天宮祝と云う」とある。 平安時代初期より神霊池に異変ある度に、九州鎮守府太宰府から京都の朝廷に奉進があり、各社寺に国家安泰の御祈祷が命じられたことが国史に記載されている。現在の社殿は昭和33年(1958)の大爆発により被害を受けたため再建されたものである。
巌殿寺は、神亀三年(726)インドの毘舎衛国から渡来した最栄読師によって開かれたとされる。最栄読師は阿蘇山の火口の西の洞窟に自ら刻んだ十一面観音を安置し、巌殿寺を開いた。加藤清正により山麓に下ろされたが、その後奥之院が建てられ今に至っている。
天正十五年(1587)肥後国人一揆で佐々成政との戦いで敗れた肥後御船城主甲斐親英(宗立)は、村人に助けられた。然し、手足に重傷を負っており、看病の甲斐なく、「我が死後は、手足の病苦の守り神とならん」と言い残して息を引き取ったという。村人は親英を足手荒神として甲斐神社を創建した。巌殿寺奥之院横にあるこの足手荒神は、その分祀である。
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