(熊本県上益城郡益城町)
肥後大津の南には熊本空港がある。その空港の南側は、熊本市のベッドタウン、ましきまちである。
(静岡県袋井市 1982年6月30日の日記から)
この日は初めて袋井の地に降り立った。15年前に廃止されている駿遠線の乗り場案内表示に違和感を覚えつつ、平たい駅舎の袋井駅を降りる。そして、列車の中から見えた大きい屋根の天理教山名大教会を訪れた。神殿(写真)は明治37年(1904)に建てられたものであるが、将来的には新たに建て替える計画があるということであった。次に資料を得るため市役所に向かった。市役所は大正12年(1923)に建てられた旧笠西村役場のもので、ミシミシと音を立てる床が印象的であった。ここでは資料を提供していただいたが、雨漏りのために紙がシワシワとなっていた。
この後は東隣の掛川に向かった。
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(神奈川県座間市)
かつては古東海道夷参(いさま)駅、そして鎌倉街道、藤沢街道、平塚から海老名を経て、八王子に至る八王子街道等、幾つもの街道筋に栄えたまちである。現在は東部の大和市寄りが発展し、西部は従来からの光景が広がる。相模川の河岸段丘である相模野台地縁端には、古墳時代終末期に築かれた横穴墓群があり、付近には古代から飲料水として利用された幾つかの湧水がある。
(丹沢方面を望む)
(相模野台地遠望)
(神井戸)
(梨ノ木坂横穴墓)
(相模野台地に上がる梨ノ木坂)
(いちのもと 奈良県天理市櫟本町)
櫟本は奈良と桜井を結ぶ上街道の宿場として栄え、往時の風情が残る町である。町並みの一つに融通念仏宗の放光山大興寺がある。ここは私の母方の親戚であり、住職の下の名は私と同じである。
(岐阜県各務原市鵜沼三ツ池町 市指定重要有形民俗文化財)
炉畑遺跡公園の一角には、近隣にあった養蚕農家から昭和51年(1976)に移築された建物がある。明治4年(1871)に建てられ、明治24年(1891)濃尾地震で倒壊するも、その材料を用い再建された、178㎡の建物である。
(名古屋市中区・北区 国指定特別史跡 1982年6月)
この日は二回目の名古屋城を訪れた。名古屋城は、今川氏親が築いた柳ノ丸が、この地に城が築かれた始まりである。天文元年(1532)織田信秀が今川氏豊から奪い取り那古野城と改名されている。 信秀の子信長は、この城で生まれたとされている。弘治元年(1555)信長が清洲城に本拠を移したため、廃城となった。
慶長十四年(1609)徳川家康は新たに名古屋城を築き、子の義直を居城させた。石垣は諸大名の分担によって築かれたため、石垣に様々な刻銘符号がみられる。
築城から元和二年(1616)頃にかけて、「清洲越し」と呼ばれる清洲城下町の移転が行われ、町人も含む、社寺3社110か寺が名古屋城下に移った。廃藩後も残り続けた天守や本丸御殿は国宝に指定されたが、昭和20年(1945)空襲により焼失し、昭和34年(1959)RC造りで外観復元された。
(豊前小倉 細川忠興)
(重文 東南隅櫓)
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(滋賀県大津市坂本)
日吉大社を後にすると、枝垂桜の横に小さな社殿があった。日吉大社の末社、流護因(りゅうごいん)社である。祭神は護因法師を祀る。かつては東本宮東門の前に護因社という末社があり、洪水で流されたのを機に、大社東側のこの場所に再建したことから、流護因社となったとされる。
護因は、日吉社に奉仕した社僧の名で、『耀天記』に、「後三条天皇は二十四年間も春宮の地位にあって即位は難しいと 思っていた。ある時、皇位につけるようにという御願書を護持僧・金剛寿院座主覚尋に託して日吉社に行かせた。覚尋は西本宮楼門前で護因に出合い、護因は御願書を預かって神に取り次いだ。それから何年もしないうちに、東宮は即位することができた。感激した天皇はすぐさま日吉社に行幸した。護因は、もと西塔西谷の法師で後の樹下宮に奉仕する僧であったが、勘案するに、御願書の有無は誰も知らないはずなのに、御願書を預かり神に取り次いだ護因は、真実の験者あるいは化人であろう」と記されている。
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