(二級河川御笠川 写真は福岡市博多区)
太宰府市の宝満山(890m)より発し、博多湾に注ぐ全長24kmの川である。元亀・天正年間(1570-92)臼杵鎮続(うすきしげつぐ)により治水が行われ、那珂川に注いでいたこの川を直接、海に注ぐ流路に変えている。
(ひじりづか こうのみちのぶふんぼ 岩手県北上市稲瀬町水越 県指定史跡)
北上川から幾つかの丘陵を越えると、やがて松林のなかに盛り土が見えてくる。これが河野四郎通信の墳墓である。
河野通信は、保元元年(1156)伊予権介河野通清の子として伊予高縄山で生まれた。壇ノ浦の戦いでは源氏側につき、伊予水軍を率いる将として活躍した。また、北条政子の妹を室とし、鎌倉幕府の御家人となった。文治五年(1189)の奥州合戦や梶原景時の変にも参加し、陸奥国にも領地を得ている。然し、承久の乱で後鳥羽上皇についたため、朝廷側が敗北した折りに捕虜となってこの地に流罪となり、翌年の貞応元年(1222)同地門岡の国見山極楽寺で最期を迎えた。
弘安三年(1280)孫の河野通秀(一遍智真)は通信の墳墓を訪れ、供養の様子を「一遍上人絵伝」が伝えている。
二段築成の葺石
周溝
城郭造りのような背後の崖
一遍供養の図
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富山港線は大正13年(1924)富岩鉄道富山港線として、富山口-岩瀬浜間が開業したのが始まりである。開戦時に富山地方鉄道に譲渡され、間もなく国策により国有化された。
廃線区間
平成18年、第三セクターのLRT(軽量軌道交通)に転換され、奥田中学校前-富山間の旧線を廃止付け替えし、富山駅北までを併用軌道(路面電車)化した。今後、富山駅の高架化以後に富山市内軌道線と接続し、相互乗り入れする計画となっている。
(愛知県新城市豊島字竜谷 1983年)
野田城龍淵の跡には、曹洞宗龍谷山法性寺がある。境内には、野田城の菅沼氏同様、土岐満貞を祖とする島田氏の墓所がある。寛永二年(1625)成重のとき設楽郡野田を領し、二千石の旗本となって陣屋を構えた。万治元年(1658)二代直次のとき、法性寺を創建。初代成重から十一代直行までの墓所(同氏領地、武蔵坂戸永源寺にも同様の墓所がある。)があり、同寺山門は野田城から移築したものという。
(北海道網走市 国登録有形文化財)
明治23年(1890)に開設された釧路集治監網走分監として開設されたのが始まりである。明治36年(1903)網走監獄と改称、大正11年(1922)網走刑務所となった。然し、明治42年(1909)山火事の延焼でほぼ全焼し、三年後に再建(現存の建物)されている。昭和59年(1984)施設が改築され、旧建物は現在地に移築された。
(独立型独居房)
他の囚人との意志疎通を断つために斜めに配置された格子
修行僧の食事より豪華な囚人食
(高見張り)
五翼放射状平屋官房中央物見台
(漬物庫)
(休泊所)
(裏門と哨舎)
ニポポ人形
(教誨堂)
(鏡橋)