(愛知県豊川市西豊町 国登録有形文化財)
昭和2年(1927) 日本初の長距離市外通話を可能にした、東京ー神戸間の装荷長距離ケーブル中継所として開設された、RC造2階塔屋付、延床面積612m2の建物である。昭和27年(1952) からは豊川電報電話局となったが、昭和38年(1963) 駅前通移転後は豊川商工会議所となり、北側部分が増築された。昭和60年(1985)商工会議所が豊川駅東側移転後は、東洋精機工業社屋となり現在に至っている。
同時期に築造されたR外壁の倉庫
(愛知県岡崎市若松町西ノ切 県指定史跡 1990年7月26日再踏査)
直径36m,高さ5.5mの円墳であり、外部施設として周濠と土師質埴輪を持つ5世紀の古墳である。訪れた当時は木々で鬱蒼とし、地表も殆ど見ることができなかった。
(東京都中央区晴海・佃)
昭和38年(1963)に竣工した、朝潮運河の豊洲運河口高潮水門である。形式は複葉(二枚)ローラーゲートで、有効幅員11.4m×2であり、平成23年から25年にかけて改修工事が成されている。
(長崎県島原市 市指定史跡 日本100名城91番)
元和四年(1618)松倉重政が近隣の日根野城に代わって島原城を築城したのが始まりである。然し、寛永十四年(1637)松倉氏の領民に対する圧政により島原の乱が勃発。松倉氏は改易され、遠江浜松から高力忠房が入封した。然しながら、寛文八年(1668)子の高長が苛斂誅求(かれんちょうきゅう:必要以上に厳しく年貢を取り立てること)をしたため改易となり、代わって丹波福知山から松平忠房が入封した。松平氏五代を経て、忠祇(ただまさ)のとき、十二歳の幼年であったため、下野宇都宮戸田忠盈(ただみつ)と知行を交換。戸田氏二代を経て安永七年(1774)再び宇都宮松平氏と交換。以後、松平氏八代を経て廃藩を迎えた。廃藩で建物は取り壊され、西の櫓は昭和35年(1960)、天守は昭和39年(1964)、巽櫓(彫刻家北村西望記念館)は昭和47年(1972)、丑寅櫓は昭和55年(1980)にそれぞれ再現されている。
西望記念館となっている巽櫓
国有形 旧三ノ丸御馬見所 江戸末期
市内中野町から移設された景華園遺跡(弥生 墳墓)遺構
丑寅櫓
天草四郎像
西の櫓
東虎口門跡
(関連記事:島原武家屋敷 島原鉄道)
(しょうこくじ 臨済宗萬年山相國承天禅寺 京都市上京区今出川通烏丸東入上ル相国寺門前町)
前日の貴船川床料理主人の強い勧めで相国寺を初めて訪れる。相国寺は明徳三年(1392)足利義満によって建立され、開山は夢窓疎石とされる。また、建立の資材は伊予河野氏が用意したとされる。然し、完成僅か二年後に、寮舎から出火し全焼。間もなく再建が開始され、応永六年(1399)には高さ360尺(109m)の大塔が完成するも、応永十年(1403)落雷により焼失した。更に応永三十二年(1423)には全山焼失。応仁の乱(1469)と天文の乱(1549)では兵火により焼失。天明の大火(1788)では法堂以外を焼失している。このように度重なる火災に遭いながらも、足利氏、豊臣氏らの加護によって再建されている。 同志社大学西側に再現された相国水路の石垣
塔頭 瑞春院
県有形 蔵経塔
重文 法堂 慶長十年 豊臣秀頼寄進
県有形 勅使門
(関連記事:銀閣寺)
(モナコ公国モンテカルロ区マドーヌ通り)
1886年、ローマ教皇レオ13世所有の土地に、モンテカルロホテルカンパニーリミテッドがホテルを開業したのが始まりである。4階建て126室のベルエポック(良き時代)様式のこのホテルは、他の観光ホテルとは違い、モナコのハイソサエティが利用するホテルとして知られる。2004年、ホテルメトロポールとなると共に、フランス人インテリアデサイナー ジャック・ガルシアにより内装がリニューアルされた。
(静岡県三島市山中新田 国指定史跡 日本100名城40番)
箱根峠に程近い標高600m弱の高地に、永禄年間(1558-70)小田原城の支城として北条氏康が築いた城である。天正十八年(1590)小田原征伐により豊臣勢に攻められ落城した。在城期間は短かったが、人里離れた高所であったため、郭や畝・障子堀等多くの遺構を今に伝えている。
(愛知県一宮市今伊勢町宮後・本神戸・馬寄 市指定史跡 1990年7月21日踏査)
かつて伊勢神宮領「神戸」であったこの辺りには、岩戸古墳、上町屋古墳、西宮古墳等5基が現存する古墳群があり、今回は2基を踏査した。字稲荷の野見神社古墳は、5世紀後半の円墳で野見神社境内にあり、直径20m,現状高さ1m,木棺直葬で円筒埴輪を有している。
字目久井の車塚古墳は別名を見当山古墳と言い、5世紀前半の前方後円墳で全長70m,高さ4mである。寛政元年(1789)河川氾濫によって墳丘が崩れ、鏡や装身具等が発見されている。
(東京都江東区豊洲・中央区晴海)
晴海運河に架かる道路橋、平成18年築造の晴海大橋に並行して架かる鉄道橋である。戦後、総武線越中島支線から分岐する港湾局深川線を更に晴海埠頭まで延長する形て敷設された貨物路線であり、その途中に架かる晴海橋梁は航路部が下路式(スルーガーダー:横梁に線路を固定)+ローゼ橋(補鋼アーチ橋)で、両側は鉄道としては日本初とされる3経間×2経間の連続PC(プレストレスト・コンクリート)桁橋。鉄橋部の長さは59m,PC橋部の長さは125m,設計は国鉄東京工事局である。平成元年に晴海線が廃止され、随時施設が撤去されたが、晴海橋梁のみ今もレールごと残されている。
(長崎県南島原市深江町)
平成3年の雲仙普賢岳火砕流により、この地域は大きな被害を受けた。このとき誕生した平成新山は標高1,483mとなり、水無川は火砕流、土石流の主たる流路となった。これを機に水無川の堤防嵩上げ、導流路の築造が行われた。水無川の名は、纏まった雨が降らない限り水流が無いことに由来する。
(Église Sainte Dévote モナコ公国モンテカルロ区)
ゴーマトの谷間、ヴァロン・デ・ガウマテスの壁前に建つ、モナコの守り神と言われる教会である。言い伝えでは、4世紀にコルシカの女性殉教者デヴォットを乗せた小船がこの地に流れ着いた。住民はその遺体を手厚く葬ると、この国の守護聖人として迎え入れ、教会を建てたのが始まりという。
(東海道 静岡県三島市山中新田 国指定史跡)
箱根八里(小田原―三島)の内、箱根峠と三島宿との間に位置する区間である。付近は標高600mであり、東海道有数の難所の一つであるため、急坂である箱根八里傾斜区間は総石畳であったとされる。平成7年から石畳の発掘調査及び復元作業が開始され、往時を偲ぶことができるようになった。