flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

谷下川

2019-10-16 00:00:00 | 水のほとり

(やげがわ 愛知県新城市乗本 2006年12月27日)
 姥ヶ懐の麓、豊川水系宇連川に注ぐ川である。

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仏行寺

2019-10-15 00:00:00 | ほとけのいおり

(神奈川県鎌倉市笛田)

 明応四年(1495)梶原景時と子の景季(かげすえ)は、源頼朝の死後御家人の弾劾に遭い鎌倉を追放され、駿河国で討死した。その死を悲しんだ景季の妻信夫(しのぶ)はこの地で自害したとされ、信夫の霊を慰めるため村人が日蓮宗笛田山仏行寺を建てたとされる。

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茂松城

2019-10-14 00:00:00 | 城郭・城下町

(高坂城 愛知県宝飯郡御津町広石 町指定史跡 2006年12月21日)
 平安時代末期、三河守護源範頼が居城したのが始まりという。室町時代には細川勝久が居城したが、御馬城と同様、今川義忠により功略された。その日が小正月の「もちい」(餅でつくった花)で祝う日であったことから、村ではその後もちい飾りをしなくなったといわれている。その後、牧主計、菅沼定盈、長沢松平氏が居城し、天正十八年(1590)廃城となった。近隣の竹本(新宮)城も関連の城であったようである。城跡は御津高校の東側、標高60mに位置し、堀、土塁、曲輪、井戸が残る。南側の山裾は、都市計画道国府駅前赤根線によって削られたが、遺構としては、ほぼ当時の姿を残している。

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浅草地下街

2019-10-13 00:00:00 | STRUCTURE-構造物残影-

(東京都台東区浅草)
 昭和30年(1955)1月に開業した、現存する地下街としては日本最古である。

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野口城

2019-10-12 00:00:00 | 城郭・城下町

(愛知県豊川市野口町 2006年12月21日)
 鎌倉時代、足利義氏が三河国守護となり、一族の足利義季(よしすえ)が額田郡細川(愛知県岡崎市)に住し、姓を細川に改めたことに始まる。義季から四代後の頼有のとき、この地方に勢力を伸ばし、応安二年(1369)先ず御馬城(御津町)を築いた。そして永徳二年(1382)の細川信氏寄進状には、宝飯郡市田(豊川市)に所領があったことが確認できる。その市田付近には頼有の曾孫、教春が永享の頃(1429-40)野口城、市田城を築城し、頼有の弟満之の曾孫、勝久が茂松城(御津町)に居城した。細川氏の後、今川氏臣の板倉主水、印宮甚蔵らが居城した。野口城は標高約70mの「城山」に本丸、二の丸及び曲輪、堀、土塁、堀切等が残るが、西側はゴルフ練習場により一部滅失している。元豊川市教委の長谷川高雄氏が、幼少の頃(明治時代末期)城跡にて刀の鍔を発見したという。
         

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千束

2019-10-11 00:00:00 | 漂い紀行

(東京都台東区千束)
 浅草の北西側、 千束分の稲を収穫できる田があったからとされるこの地は、東に吉原を有し、周辺とは若干趣が違う雰囲気が漂う。

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小牧神明社

2019-10-10 00:00:00 | かみのやしろ

(愛知県幡豆郡吉良町小牧字宮西 2006年12月15日)
 矢作古川と矢崎川に挟まれたこの地は、戦国時代には隣接する駮馬村の吉良氏東条城を攻めるため、松平元康臣の本多広孝が砦を築いた場所である。その小牧村の鎮守が神明社である。

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かっぱ寺

2019-10-09 00:00:00 | ほとけのいおり
(曹洞宗巨嶽山曹源寺 東京都台東区松が谷)
 天正十六年(1588)日比谷入江(千代田区和田倉付近)に創建したが、間もなく江戸城拡張により湯島天神下に移転。然し、明暦の大火により焼失し、現在地に移転した。付近は水捌けが悪く度々水害に遭ったため、商人である合羽屋喜八が私財を投じて新堀川(現在の合羽橋商店街)を開削した。その際、隅田川に棲むカッパが手伝ったと伝わる。文化十一年(1814)喜八が亡くなり、この曹源寺に葬られた。
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藤波畷古戦場

2019-10-08 00:00:00 | 城郭・城下町

(愛知県幡豆郡吉良町瀬戸字藤波 2006年12月15日)  永禄四年(1561)松平元康(徳川家康)が吉良義昭の東条城を攻め、落城させた。その際、吉良氏の家老富永忠元を本多広孝が討ち取っている。

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道三堀跡

2019-10-07 00:00:00 | 城郭・城下町
(東京都千代田区大手町)
 昭和37年(1962)築造の日本ビルが建つ場所は、天正十八年(1590)江戸城に物資を運ぶため和田倉門から日本橋川まで開削された運河があった場所である。明治43年(1909)に埋め立てられている。堀に面して幕府侍医曲直瀬(まなせ)道三の屋敷があったことから道三堀と呼ばれるようになった。付近は高度成長期に再開発が行われたが、再び再開発が計画され、日本一の高層ビルが建設されることになっている。





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四極山遠望

2019-10-06 00:00:00 | 漂い紀行

(しはつやま 愛知県幡豆郡吉良町駮馬 2006年12月15日)
 万葉集巻三(二七二)高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が詠んだ一首に、「四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小船」があり、その四極山がこの山という説がある。

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裏吉田ノラねこ通り

2019-10-05 00:00:00 | 街道・宿場町
(横浜市中区吉田町)
 平成30年まで「おいしんぼ横町」と呼ばれていたこの路地は、個人経営の店が多いことに因み「ノラねこ通り」と改名された。野毛から伊勢佐木町への裏通りである
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東条八幡神社

2019-10-04 00:00:00 | かみのやしろ

(愛知県幡豆郡吉良町駮馬字城山 2006年12月15日)
 吉良氏発祥地、東条城二の丸に建つ八幡神社は、建長年間(1249-55)足利義氏によって城の守護神として八幡大菩薩が勧請されたものという。

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大岡川宮川

2019-10-03 00:00:00 | 水のほとり
(横浜市中区)
 かつて野毛浦であったこの辺りは、明治時代に入ると埋め立てられて大岡川の下流部ができた。都橋の袂には子之神社が祀られ、その傍らには宮川という水路があり、宮川町という地名が付けられた。然し、空襲により神社は焼失し、伊勢山皇大神宮(西区宮崎町)に遷座して、水路も暗渠となった。昭和39年(1964)には大岡川沿いの露店を集めた都橋商店街(ハーモニカ横丁)ができ、辺りの光景は特徴的なものとなった。
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友国春日神社

2019-10-02 00:00:00 | かみのやしろ

(愛知県幡豆郡吉良町友国字松下 2006年12月15日)
 社伝によると暦応2年(1339)足利尊氏が荒川在城の際、当地において高五百五十石の厨屋新田を開拓した。そこには伊井塚があり、同所には鎮守として大和春日社より分霊を勧請し、伊井塚大明神を創建した。また、応永七年(1400)足利義満参拝の時、四海太平子孫繁栄を祈って獅子頭、王鼻面の奉納があったという。

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