(やげがわ 愛知県新城市乗本 2006年12月27日)
姥ヶ懐の麓、豊川水系宇連川に注ぐ川である。
(神奈川県鎌倉市笛田)
明応四年(1495)梶原景時と子の景季(かげすえ)は、源頼朝の死後御家人の弾劾に遭い鎌倉を追放され、駿河国で討死した。その死を悲しんだ景季の妻信夫(しのぶ)はこの地で自害したとされ、信夫の霊を慰めるため村人が日蓮宗笛田山仏行寺を建てたとされる。
(高坂城 愛知県宝飯郡御津町広石 町指定史跡 2006年12月21日)
平安時代末期、三河守護源範頼が居城したのが始まりという。室町時代には細川勝久が居城したが、御馬城と同様、今川義忠により功略された。その日が小正月の「もちい」(餅でつくった花)で祝う日であったことから、村ではその後もちい飾りをしなくなったといわれている。その後、牧主計、菅沼定盈、長沢松平氏が居城し、天正十八年(1590)廃城となった。近隣の竹本(新宮)城も関連の城であったようである。城跡は御津高校の東側、標高60mに位置し、堀、土塁、曲輪、井戸が残る。南側の山裾は、都市計画道国府駅前赤根線によって削られたが、遺構としては、ほぼ当時の姿を残している。
(愛知県豊川市野口町 2006年12月21日)
鎌倉時代、足利義氏が三河国守護となり、一族の足利義季(よしすえ)が額田郡細川(愛知県岡崎市)に住し、姓を細川に改めたことに始まる。義季から四代後の頼有のとき、この地方に勢力を伸ばし、応安二年(1369)先ず御馬城(御津町)を築いた。そして永徳二年(1382)の細川信氏寄進状には、宝飯郡市田(豊川市)に所領があったことが確認できる。その市田付近には頼有の曾孫、教春が永享の頃(1429-40)野口城、市田城を築城し、頼有の弟満之の曾孫、勝久が茂松城(御津町)に居城した。細川氏の後、今川氏臣の板倉主水、印宮甚蔵らが居城した。野口城は標高約70mの「城山」に本丸、二の丸及び曲輪、堀、土塁、堀切等が残るが、西側はゴルフ練習場により一部滅失している。元豊川市教委の長谷川高雄氏が、幼少の頃(明治時代末期)城跡にて刀の鍔を発見したという。
(愛知県幡豆郡吉良町小牧字宮西 2006年12月15日)
矢作古川と矢崎川に挟まれたこの地は、戦国時代には隣接する駮馬村の吉良氏東条城を攻めるため、松平元康臣の本多広孝が砦を築いた場所である。その小牧村の鎮守が神明社である。
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(しはつやま 愛知県幡豆郡吉良町駮馬 2006年12月15日)
万葉集巻三(二七二)高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が詠んだ一首に、「四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小船」があり、その四極山がこの山という説がある。
(愛知県幡豆郡吉良町友国字松下 2006年12月15日)
社伝によると暦応2年(1339)足利尊氏が荒川在城の際、当地において高五百五十石の厨屋新田を開拓した。そこには伊井塚があり、同所には鎮守として大和春日社より分霊を勧請し、伊井塚大明神を創建した。また、応永七年(1400)足利義満参拝の時、四海太平子孫繁栄を祈って獅子頭、王鼻面の奉納があったという。