京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 「海神別荘」

2012年02月26日 | 映画・観劇

わたつみの財宝への欲と引き換えに、眉目容色世に類なき一人娘(玉三郎)は海底に捧げられた。
この美女は、「面(おもて)玉のごとく臈丈(ろうた)けたり。黒髪を背に捌(さば)く。青地錦の直垂、黄金づくりの剣を佩(は)く」海神の若君・公子(こうし、海老蔵)の若奥様として輿入れをする。

父親や故郷の人間に死んだと思われている自分が、こうして生きているのを見せてやりたい。身を飾る宝玉、指輪も人に見せなくては価値がない、と娘は未練を口にする。「人に知られないで活きているのは、活きているのじゃないんですもの。誰も知らない命は、生命(いのち)ではありません」と。

だが、公子は、娘の言う人の「情愛」を疑い、虚飾、栄燿を見せびらかすことはいかんと諭す。人は自己、自分で満足しなくてはならない。人に価値をつけさせて、それに従うべきものではない。「人に見せびらかす時、その艶は黒くなり、その質は醜くなる」
そして、陸には名山、佳水があり、俊岳も大河もある。更科の秋の名月や、錦を染めた木曽の山々は、海底の珠玉の金銀に劣りはしないものなのに、「人間は知らない振をして見ないんだろう」人間の目には何も見えていない、と言う。

人間以上に豊かな情感を漂わす公子は、鏡花の魂の具現だろうか。美女が心を通わすことで、この幻想的世界は浄化される…??のかな…?。
玉三郎演ずる美女の登場は、何故か「伎芸天」を念頭に浮かばせた。ふくよかに、少し首をかしげた美しさ、あるいは菩薩のよう、とも言えそうか。

シネマ歌舞伎 泉鏡花原作『海神別荘』。目立った大きな動きも少なく、じっと科白のやり取りに耳を凝らし楽しんだ。




コメント (4)
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