13日、高野街道ウォーク参加のため4時半起床。身支度を整え朝食も済ませ、家を出る6時半までには1時間ほどの余裕を残して身体のリズムを整える。熊野古道を歩いていた時も同様で、どんなに回を重ねても自分にとって起床後の時間はかなり重要な意味を持つ。
テレビをつけて新聞を開くや、テレビ画面では5時33分ごろ生じた地震の大きな揺れに注意するよう呼び掛けが始まった。ガタガタと音がして揺れ出す。更には、携帯電話が緊急地震速報を受信して初めて耳にする音を立てていた。
幸い大きな揺れはなかったが、京都駅八条口出発予定時刻になっても参加者が揃わない。JRの運休や不通といったハプニングにもめげず、ルートを探して1人、2人、また2人と姿を見せ、1時間遅れの8時半になってようやく出発!
12kmの行程で交野市、寝屋川市、四条畷市、大東市、東大阪市と南下した。
お伽草紙の”鉢かづき姫”がかわいい寝屋川市の案内板。ここの四つ辻は南北の東高野街道と東西の奈良伊勢街道とが交わるところだと教えてくれる。「東 なら いせミち」「南 かうや のさき 大阪みち」「北 京 八はた 柳谷 星田妙見道」と刻まれ、安政4年、酒屋の勘平衛さんが父母のために建てたとされる道標だが、以来、伊勢大社や高野山、柳谷観音などに参拝する人々を案内したことだろう、などとある。
「この道は京都の東寺より高野山に至る街道であり 平安の昔より今日まで多くの歴史を秘めている」こんな石の道標にも時々出会える。なかなかイメージできない「街道」歩きだが、そうなんだ、とかすかに救われる思いだ。
野崎参りは 屋形船でまいろ / どこを向いても 菜の花ざかり / 粋な日傘にゃ 蝶々もとまる / 呼んで見ようか 土手の人
野崎参りは 屋形船でまいろ / お染久松 切ない恋に / 残る紅梅 久作屋敷 / 今も降らすか はるのあめ (「野崎小唄」)
200段に近い石段を上がって慈眼寺(野崎観音)へ。かつては、西側一帯は大阪からつながる大きな池(平野池)があったのだそうな。大阪から野崎参りの屋形船が行き来していたという。「お染久松の物語」、二人の塚も境内の一隅にあった。
ゴールは石切剱箭(いしきりつるぎや)神社。大勢の参拝者で賑わっていた本社と絵馬殿の造りは見事だったが、あまり興味もわかない。50分もあった自由行動の時間も、細く長く続く石切参道商店街を途中まで見歩いただけで終えて、バスに戻ることにした。
人生いろいろ、歩行のペースにはひとまずこだわりを捨てて、もう少しだけ踏ん張ってみようかと2回目の参加を決めた。20691歩。