
漱石は筆まめで門下生や文学仲間に実に多くの手紙を残しているそうだ。
誠実な心情の吐露があり、歯に衣着せぬ率直さで辛辣な表現もあれば、相手に応じた適切で自在な語り口が特徴で、佐伯一麦氏はそこから文学生活を送る上での処世のことを数々教わったと記している。(「牛のように押すのです」『とりどりの円を描く』収)
その一つ、漱石から芥川龍之介、久米正雄にあてて。
「牛になることはどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなりきれないです。……あせっては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでおいでなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです」
ここには、小説を書いて苦労しながら慎ましく生活した一人の男の肉声があり、明日も暮らしていこうという静かな熱を与えてくれる、と佐伯氏。
八木義徳の遺作集「われは蝸牛にて」。八木を師として師事した水村節子さんは78歳の新人作家として作品を上梓した。師以上の蝸牛のような歩みで、しぶとくしぶとく努力を重ねて。

さあ少し頑張ろうっと。うんうんと根気ずくで進む。さすれば石をも穿つ?ってことではないか。でもこれハート型。
〈今は、とにかく一人静かによろこびたい〉なんて、夫の一文を真似てみようか。
そのうち、きっと。根気よくしぶとく。
「牛のように押すのです」ね。