東大寺南大門の仁王像(阿形と吽形像)を造るために、まず雛型(縮小の模型)を制作する。そのうえでそれを分解して、実際の像の各部材の大きさに引き延ばし、墨付けする ―
といった工程の描写が『荒仏師 運慶』にあった。
「分解」「各部材」。これは技法が一木造りから寄木造りに変わったためで、最後は部材を一つにまとめあげるわけだが、仁王像の巨大さを思い浮かべながら、ミニチュアからどう拡大したのだろうかと興味がわいていた。
龍谷ミュージアムでは、江戸時代から平成まで15代続いた京都仏師・畑治良衛門が伝えてきた雛型の特集展示「仏像ひな型の世界Ⅲ」が開催中だった。先月末、この拡大法にも触れる講演会があったが参加できなかったので、知りたいことは知り得ないまま。
もういいか。見なくても困らない。とは一応気になる証拠。今日は素晴らしい陽気だ。もう見ることはないだろうからと思い直した。
一つ。親鸞と墨字で記された10センチもない彫像に“墨付け”を見た。といってもマス目ではなく1、2筋の“線”が目についた。拡大からの工程のビデオ作りなどしてくれてあればいいのに。
行けば行ったでこってり見てしまう気の入れよう。大方見なくてもよかったなと思ったが…、そんなこと言わんとこ。
【雛型とは建築でいえば設計図面に当たる存在です。大きな仏像をどのようにして効率的に制作するかを考えるための縮小模型として、または施主や発願者に見せる完成予想図としての役割などを果たしたのでしょう。完成品は手元を離れてしまうため、仏師や工房にとっては木組みを記録する手控えとしても役に立ち、まさに財産に値します】
って。
雛型は工房の外に持ち出されることはなく、その存在は一般に知られていなかったという。
といった工程の描写が『荒仏師 運慶』にあった。
「分解」「各部材」。これは技法が一木造りから寄木造りに変わったためで、最後は部材を一つにまとめあげるわけだが、仁王像の巨大さを思い浮かべながら、ミニチュアからどう拡大したのだろうかと興味がわいていた。
龍谷ミュージアムでは、江戸時代から平成まで15代続いた京都仏師・畑治良衛門が伝えてきた雛型の特集展示「仏像ひな型の世界Ⅲ」が開催中だった。先月末、この拡大法にも触れる講演会があったが参加できなかったので、知りたいことは知り得ないまま。
もういいか。見なくても困らない。とは一応気になる証拠。今日は素晴らしい陽気だ。もう見ることはないだろうからと思い直した。
一つ。親鸞と墨字で記された10センチもない彫像に“墨付け”を見た。といってもマス目ではなく1、2筋の“線”が目についた。拡大からの工程のビデオ作りなどしてくれてあればいいのに。
行けば行ったでこってり見てしまう気の入れよう。大方見なくてもよかったなと思ったが…、そんなこと言わんとこ。
【雛型とは建築でいえば設計図面に当たる存在です。大きな仏像をどのようにして効率的に制作するかを考えるための縮小模型として、または施主や発願者に見せる完成予想図としての役割などを果たしたのでしょう。完成品は手元を離れてしまうため、仏師や工房にとっては木組みを記録する手控えとしても役に立ち、まさに財産に値します】
って。
雛型は工房の外に持ち出されることはなく、その存在は一般に知られていなかったという。
仏師江里康慧さんはテレビにも出たり、東京で展覧会開かれた方とか。初めて聞きました。
運慶は名前だけ知っていました。
「三慶」など慶派の首とどこかで読みました。
知り合い(ブログ友でもある)ですが、円空仏に詳しく
ご自分でも仏像彫っておられ、
何回も作品展で見せて頂きました(名古屋の方)
私の知らない世界も知り得ました。
運動教室でご一緒のKさんは亡きご主人が
円空仏の木像を彫っておられ時々話題にします。
円空さんは地元なので多くの人が親しんでいます。
スキャンしてみましたがうまく出ませんでした。
サイズは拡大するとしても原型のように彫っていくのもまた大変な技術ですね。
『荒仏師』では、マス目を書いた賽割法で南大門の仁王像を造る描写でしたが、
実際の修復時にマス目は見られなかったそうで、運慶の頃(鎌倉時代)は
賽割法ではない拡大方法だったのではと記事にありました。
仏師はただの彫師ではない。仏道修行者であり僧侶の位をいただく身…。
時代も反映して、興味深く読みました。
昔の事、旅先(奥飛騨だったか?)で円空の試し彫りのような一刀彫の仏像を、数点、目にする機会がありました。
確かに、念入りに彫り整えられ完成された仏像には尊敬の畏怖さえ備わっていますよね。
でも、何とも荒削りの円空仏(これも仏像?と思うようなものにも)に接したとき、心が引き込まれる迫力を感じたのを覚えていますね、大きさとか繊細さとかを超えた魅力と思いました。
最近TV等で鎌倉幕府が話題になるにつれて、運慶仏が取り上げられる回数も増えているように見えますが、伊豆地方にも、運慶を含めて慶派の仏様があるので、どちらかと言えば、私のようなイイ加減人間でも身近に感じていますし、好ましい雰囲気の仏像の一つと思っているのです。
現物大を雛サイズに残すことででも雛型は造られたようですが、
拡大の工程をイメージするだけでなくもう少しわかりたいと思ったのでした、が…。
時政の依頼を受け鎌倉に工房が作られ、やがて京にも進出の運慶。
そのどちらにも加わらず奈良で仕事をする快慶との方向性や個性の違いは、小説でも興味深い一つでした。
奈良、平安、鎌倉など時代による作風の違いは、仏像が誰のために作られていたかを思い合わせることにもなります。
円空や木喰さんといった遊行僧が各地で彫った仏像は素朴で温かみがあり、持仏にしたい思いです。
川や土の中に隠して兵火から守られた仏像が、朽ちかけたり欠損した状態で小さな村々に伝わるのを
拝観し、信仰の濃厚さが心を打つこともありました。
ユーモアのある仏様も拝観したことありました。
有名無名、精巧粗削りを問わず、見る人の心に忍び入る何かがあるのですね。
こちら側が感応する、といったものなのでしょうか。
奥飛騨での円空仏との出会い。心に刻まれる出会となった素敵な思い出ですね。