塔本シスコ。1913(大正2)年に現在の熊本県八代市に生まれ、生後間もなく養女となり、養父がサンフランシスコ移住を夢見ていたとかでシスコと名付けられた。温かな愛情を受けて育ち、20歳で料理人の塔本末蔵と結婚。長男長女を授かり、草花や鈴虫、金魚など育て子供たちとスケッチする日々を過ごしていたそうだ。夫の死後、53歳で絵を描き始めた。
画家を目指していた長男の油彩画の表面を削り取って、その上に描いた《秋の庭》。「私も大きな絵ば描きたかった」と言ったという。
その後、大阪の枚方で長男家族と同居、四畳半が彼女のアトリエだった。
「どがんねぇ、よかでしょうが」「ちょっとみてくれんね」。 キャンバスだけでなく板、段ボールにまで描いている。故郷の思い出日記。
「私にはこがん見えるったい」「また新しいキャンバスを以て来てなんよ」「私は死ぬるまで絵ば描きましょうたい」
《90歳のプレゼント》が最後の大作になったという。
〈塔本シスコ展 シスコ・パラダイス〉で230点余りの作品を楽しんできた。
描かずにいられない。一枚一枚がシスコさんの喜怒哀楽のほとばしりを見せてくれるような絵に感じた。とっても楽しく絵と対面する時間だった。初めての経験かもしれないと思うほど。
孫の男組、10歳と5歳だけれど、この二人と一緒だったら、あっ、こんなところに虫が!顔が!と発見も多かったろう。
なんで花の下で田植えを? 構図に?が付いたかもしれない。生きてるみたいと感動し、人に手がないなあ、同じ顔ばかり並んでるなあ、僕と同じ目を描くなあ…。たくさんの言葉が飛び出したことだろうと想像する。白い椿の花芯に顔、顔、顔。これがまたちゃんと椿になっているのが素敵。
板や段ボール、竹筒、しゃもじ、ビンにまで「描かずにはいられない」シスコさん。
こんなふうに生きた女性を今さらに知った。
「展覧会は、鑑賞する人の心に感動を刻むきっかけを提示する一つの『場』。そこで感動の種が心という土地にまかれ、成長していく。最後に咲く花はすべて異なります」
世田谷美術館館長・酒井忠康『展覧会の挨拶』にある。
遅まきながらまかれた種。成長の日々があるや否や…だが、私は私の土壌で育てる。
シスコさんの命名もまた楽しいですね。
私は長女第一子ですが、父が卑弥呼とつけたかったのに
周囲の猛反対で、では「日実子」で再提案してもこれまた反対されて
平々凡々なreikoになったとか、本当の話か
どうかわかりません。
邪馬台国の女王に申し訳ないお話です。
卑弥呼さんとは大胆な発想ですね(笑)
日実子さんの表記なら問題なさそうですけど、
どちらも却下とは、お父様がっかりされたでしょうね。
新聞で案内を見まして、気持ちが動きました。
私にしては珍しいことです。
ゴッホの絵よりいいなあと思えました。
描くのも楽しそうです。楽しんで描いているのですね。
見てる私もとても楽しめました。