Luntaの小さい旅、大きい旅

ちょっとそこからヒマラヤの奥地まで

スリランカでアーユルベーダのはずが 3

2007-10-18 00:44:45 | 南アジア
12月26日 続き

丘の上に避難したバーベリンの宿泊客、しばらくして集められ、またミニバスに乗せられて別の丘の上にある瀟洒な別荘に運ばれた。
 ほっとして庭でくつろぐ避難民。

ブリーフ荘と言う名のこの家はスリランカの有名な建築家ジェフリー・バワが妹のために建てたものとかで、普段だったら観光客が見に来るようなところ。バーベリンのオーナー一家が懇意にしているため、避難民を受け入れてくれたらしい。

 広大なお庭は美しく、
 
さりげにピカソの絵まである邸内は美術館のようだ。

着くとと早々にホテルのスタッフがお茶とビスケットを配ってくれて、さらに食料を調達してきて食事を出してくれた。
 
こんな状況下、自分たちの家族のことも心配だろうに、と本当に頭が下がる。

ところでバーベリンの宿泊客はほとんどがドイツ人、あとはその他ヨーロッパ人とアメリカ人が何人か、日本人は15人ほどいただろうか。
そのドイツ人の中に休暇中だった外務省勤務の女性がいて、みんながボーっとしている中、国ごとに連絡先のリストを作らせ、大使館に連絡を入れ始めてくれた。

正直、この人がいなかったら日本人のほとんどは大使館のことなど思いつきもしなかったと思う。
と言うのも、ドイツやアメリカの大使館からは「何事があろうと自国民は必ず無事に帰国させる」とすぐに返事が来たが、日本大使館はなんと「休日のため留守電になっている」状態だったのだから。

大使館の名誉のために付け加えると、この後ファックスで名簿が送られて、この日の夜には実家に無事を連絡してくれた(と後で聞いた)のだが、この差は何なのだろう。こんなことだからいざという時、「とにかく大使館へ」と思いつかないわけだ。

もう一つのんびりしていたわけは情報が何もなかったから。津波が来てホテルにいられなくなったことは分かったが、この時点ではまだ日本に知れ渡るほどの大災害だとはまったく知らなかったのだ。

夜になってどこからか骨董品のようなラジオが引っ張り出され、BBCのニュースが入ってようやく大事だと分かり始めた。それにしてもニュースはプーケットがひどい状態だと、そればかり言っている。災害の現場にいると本当に情報は入らないものだ。

やがてシーツが配られてみんな横になる。広い屋敷とは言え、おそらく100人以上の人間がごろごろ。風の通るつくりの家は虫も通り放題。蚊にさされまくって、さすがにまったく眠れなかった。

12月27日

朝、夜が明けるとまずは歯ブラシの配給、そして朝食。
 まったく至れり尽くせりの避難民生活。

が、いつまでもこうしているわけにはいかない。どうしたものかと思うが、ドイツ人たちが着々と情報を集めているのに比べて、日本人は皆どうにかなるのを漠然と待っている。どこかに連絡を取っているらしい女の子もいるのだが、この子はなぜか他の人たちと情報を共有しようとしない。

仕方がないので疲れてふらふらになっている女性オーナーに、日本人に状況説明してくれ、と頼む。すると部屋に残された荷物はじきにスタッフがかき集めてもってきてくれること、セーフティーボックスは水をかぶったが無事、ただし鍵がなくなってしまったのであけるのに何日かかかること、コロンボに帰りたければできる限りの手助けはしてくれること、島のさらに南にある姉妹ホテルは高台にあるため無事であり、希望者は受け入れられることを説明してくれた。

さて、どうしようかと考えたが、あわてて帰国しようとしても大変そうだし、部屋はあると言うことなので、私と友人二人は南の姉妹ホテルへ移動することにした。

現地の我々はあくまで能天気だったのである。

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