苦し紛れの一文である。長く熱愛するノンフィクション作家の沢木耕太郎がエッセイの中で「ノンフィクションもまたひとつのフィクションすぎない」と語っている一文に出合った。沢木のノンフィクションを熱愛する私としては新鮮な響きがあった。沢木の真意とは?
苦し紛れの一文である。本来なら、三日間続いていた体力づくりの一環として今日もどこかを歩いた、登ったというレポを綴るはずだったのだが、どこへも出かけなかった。その理由は敢えて記すまい。自分の節操のなさを披瀝するだけだから…。
で本題である。過日、沢木の最新本(正確にはもう一冊発刊しているが)「銀河を渡る 全エッセイ」を読み終えた。私にとっては久しぶりに触れる沢木の文章に至福を感じながら読み進めた。
そのエッセイの中に一つに「壇の響き」という一節があった。それは沢木が亡き作家・壇一雄について夫人へのインタビューをもとに編んだ一冊である。その一冊「壇」は、インタビューをもとに構成したものでありながら、「私」という一人称で文章を編んでいるのである。つまり、沢木は「壇」において夫人になり代わって壇一雄を語っているのだ。このことが「壇」の発刊当時、「ノンフィクションではなく、フィクションではないか」と論議を呼んだそうだ。そのことを振り返った一節だったのである。
沢木は「壇」に限らず、さまざまな作品においてそれまでのノンフィクションの壁を破ろうといろいろと作品のスタイルを変えることを試みている。例えば「一瞬の夏」においては、自らをボクシングのトレーナーまがいの位置において、ボクシング界の内幕を、タイトルマッチに臨む選手の心理を描いている。
つまりちょっと乱暴な言い方をすれば、沢木にとって彼の紡ぎ出す作品がノンフィクションなのか、フィクションなのかなどという問題はどうでもよいことと考えているのだと私は思う。だからリード文のような言葉を発するのだと思われる。
ノンフィクションとは、「虚構によらず事実に基づく伝記・記録文学などの散文作品,または,記録映画など」を指すというが、作品にしたり、映画にしたりする際に、そこには当然のように事実を見聞した作者の印象や思い、思想などといったものが入り込むとすると、それは沢木のいうようにノンフィクションもまた一つのフィクションにすぎない、という論も成り立つように思える。問題は事実から出発したものか、虚構から出発したものか、ということであろう。
話はグーッと変わって、私たちが発するブログであるが、これはやはり事実から出発したものでなければならないと私は思っている。ずーっと以前のことであるが、ある講習会で「ブログなど嘘八百である」と口汚く罵る若い女性がいた。確かにそうした事例もないとは言えないだろう。しかし私が綴るブログは事実を淡々と綴りたいと思っている。それをどのように表現するか、ちょっとの工夫も加えながら…。