オホーツク海沿岸に点在する古代遺跡群は、5世紀ころに北方から渡ってきた “海の民” がもたらした、オホーツク海沿いだけに栄えた特異な文化だと言われている。しかし、それだけに止まらず旧石器時代を含めてさまざまな時代の遺跡が点在しているのがオホーツク沿岸の古代遺跡群である。私はその中の数か所を今回訪れた。
白滝遺跡群
「白滝遺跡群」の場所を見つけるのに苦労した。というのも事前に「遠軽町埋蔵文化財センター」に伺ったところ、「黒曜石の露頭は山奥深くで、とても個人ではいけませんよ」、「遺跡群の入口に看板が掲示されているだけです」と伺っていた。私はその看板のところまででも行ってみようと考えていた。それが難航した。詳しいマップもなかったので、ここと思われる所をあちこちと歩き回り、ようやく鬱蒼とした林の中に看板を見つけた。
その後、遠軽町白滝地区にある「遠軽町埋蔵文化財センター」を訪れた。白滝遺跡は何といっても「黒曜石」の産地として有名である。特に旧石器時代には動物の狩りをする際の矢じりなどとして黒曜石が重宝されたために、白滝から全国的に黒曜石が流通したようである。私は以前に福岡県太宰府にある「北九州国立博物館」を訪れた際に、白滝産の黒曜石が展示されていたのを目にして感激したことを憶えている。
※ 黒曜石ができるのは図のように溶結凝灰岩が特殊な形で冷えた結果としてできるようだ。
文化財センターに黒光りする大きな黒曜石が鎮座していた。
ところ遺跡の森
旅日記でも触れたが、私は現職時代に「ところ遺跡の森」がある北見市常呂の栄浦に何度も訪れたことがあったが、この「ところ遺跡の森」には一度も足を向けたことがなかった。遺跡などは縁遠いものと思っていたのだ。
ところが今回訪れてみて、非常に貴重な遺跡であることを思い知らされた。どこが貴重かというと、徒歩で歩けるほどの範囲に縄文時代、続縄文時代、擦文時代の竪穴住居跡が点在しているのだ。その一部は、復元して展示されているのも素人には嬉しい措置だった。
※ 擦文時代の竪穴住居を復元したものです。
※ こちらは擦文時代の竪穴住居跡の柱と板壁を再現したものです。
※ こちらは縄文前期の竪穴住居を再現したものです。
※ 上掲の竪穴住居の内部です。中央に竈跡が築かれています。
※ 白い表示板のところは竪穴住居跡の窪みです。これをみるとかなり集住しているのが分かります。
また、森の中には「ところ遺跡の館」、「ところ埋蔵文化財センター」、「東京大学常呂資料陳列館」などが点在し、いまなお研究活動が継続されているらしい様子も伺うことができた。
※ 「ところ遺跡の館」の前面です。
※ 発掘された土器が年代別に陳列されていました。
※ 左から、縄文前期、縄文後期、擦文時代と竪穴住居の形が変遷したことを模型で示していました。
※ こちらはその後にやってきたオホーツク文化時代の大型の竪穴住居の模型です。
※ 「ところ遺跡の森」内にある「東京大学常呂資料陳列館」です。
※ 同じく「ところ埋蔵文化センター」の建物です。
モヨロ貝塚
「モヨロ貝塚」は網走市の網走川河口の小高い丘に広がっていた。実は私は確か小学生の頃にこの地を訪れ、竪穴式住居を再現したものを見た記憶があるが大して関心を持たずに今日に至っている。今回訪れてみて立派な「モヨロ貝塚館」がインフォメーション的役割を担い、その後背地にモヨロ貝塚の森が広がっていた。モヨロ貝塚は、文字どおり大規模の貝塚を発見した(アマチュアの考古学マニア米村喜男衛によって発見された)ことがキッカケとなって周囲に竪穴住居跡やさまざまな出土品が発掘された。特徴はこれまでの縄文文化とは明らかに違い、海獣の狩猟が主であったり、竪穴住居の跡が五角形だったりと、特徴があったことから、北方から渡ってきた “海の民” だったと結論付けられたようだ。ただ、この “海の民” の文化は11世紀頃に忽然としてその形跡を消してしまったらしい。そこで彼らは “謎の民” とも呼ばれているようである。
※ 「モヨロ貝塚館」内に展示されていたモヨロ貝塚の様子です。
※ 土器の首の下あたりに付けられた刻みがオホーツク文化の特徴で「刻文土器」と呼んでいるようです。
※ 石標の後ろに竪穴住居跡が見えます。住居跡が深いのが特徴のようです。
※ 五角形が見事に見て取れます。
※ 土が盛り上がっているところは墓跡だそうです。
斜里朱円周堤墓群
危なくウトロへ導かれるところだった。事前に地元の観光協会にその位置を確認したのだが「道路脇に案内看板がある」と聞いて安心して現地に向かったのだが…。斜里町朱円地区を過ぎてもなかなかその案内が目に入らなかった。朝早かったが、道路際の農家に立ちよりその位置を訪ねるとずいぶん走りすぎていたことが判明した。教えられた通り戻って見ると、確かに道路脇に案内看板があったが、傍の立木のせいで見えづらくなっていたのが残念だった。
朱円周堤墓は縄文時代後期における北海道独自の埋葬儀礼の場として造られたそうだ。そう言われてみると世界遺産にも登録された千歳市の「キウス周堤墓群」もまた円形の集団墓地である。
朱円周堤墓は、大小二つの周堤墓が保存されていた。A号周堤墓が直径28m、B号周堤墓が直径32mの規模だった。周堤墓内には複数の積み石による墓があった。遺跡として残されているのは周堤墓だけであるが、周囲には竪穴住居跡も発見されているようである。
※ 写真ではイマイチですが、きれいに周りがも盛り上がり、円形ができていました。
※ 周堤墓内には、写真のように石が置かれ個々のお墓の位置を示しています。
以上、4ヵ所の「オホーツク沿岸の古代遺跡群」を訪ね歩いたが、私が参考にしている「北海道遺産完全ガイド」(北海道新聞社刊)によると、さらに一か所枝幸町に「目梨泊遺跡」があるようであるが、こちらはかなり遠隔地にあるために訪れることを諦めた。