道南の旅4日目は、島牧村と寿都町の二つの町村のみとなった。二つの町村共にこれまでと比べそれほど見どころも多くなかったため、帰路を急いだ。ただ、今話題(?)の寿都町にはちょっとしたエピソードがあった…。
◆第4日 9月16日(木)
◇島牧村
島牧村は旅からのレポートでも「見どころがそれほどない」とレポしたが、私が唯一興味があったのは高さ70m、幅35mという道内最大規模を誇る「賀老の滝」だった。しかし、この滝に至るには内陸奥深く相当に入らねばならないようだった。とても気軽の寄ることができるところではないと考え諦めた。するともう他には見どころらしいところはなかった。そこで…「名もなき岩」である。
■名もなき岩
※ 名もなき岩ですが、岩の頂のところに灯台が立っています。
「島牧村には何もないなぁ…」と思いながら走っていると、目前に大きな岩が現れ、その岩の頂に灯台のようなものが見えた。特別名前は付けられてはいないが、地元の人たちにとっては特別な岩ではないか、と思いカメラに収めた。
◇寿都町
寿都町は昨年放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場選定に向けた文献調査に神恵内村と共に応募したことから、俄かに注目を浴びることになった町である。私はこの応募の中心人物となった片岡町長のお話しをあるところで聴いたことがある。そうしたことも含めてレポしたい。
■弁慶岬
※ 日本海を背にした「武蔵坊弁慶」像です。
島牧村から寿都町に入って間もなく、岬の突端に「武蔵坊弁慶像」が立っている。なぜここに弁慶像なのか?その謂れについて、弁慶像の裏に説明があった。それによると、「奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在した。弁慶は、毎日この岬の先端に立って同志の到着を待っていたが、再会することはできませんでした。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌの人たちはいつしかこの岬のことを「弁慶岬」と呼ぶようになったと言われています。」とあった。
それにしても道内には義経伝説が伝えられているところが数多い。何故なのだろうか?
■寿都鰊御殿
※ 釘を1本も使わずに建設したという鰊御殿です。
寿都町市街地からかなり岩内町側に寄った歌棄町地区の道路際に大きな木造建築が目に入る。釘を一本も使わずに建てられたという広壮な鰊御殿である。内部には鰊漁で賑わっていた当時の漁具や生活用具などが展示されているという。現在は内部がリニューアルされて「そば処」として利用されている。朝早かったこともあり、開店前で入店は叶わなかった。
■町長さんご自慢の風力発電
※ 地元で「だし風」と呼ばれる局地的な風が吹く場所に建てられた11基の風車です。
「町長さんご自慢の」と冠言葉を付けたが、実は寿都町の風力発電について、私は町長さんご自身から直接お話を聴いたことがあったのだ。
それは今から6年も前のことになるが、札幌大学が「市町村長リレー講座」を開催していて私も受講していた。そのゲストとして2016年10月4日に寿都町の片岡春雄町長が招請され「地域資源を生かした町づくり」と題してお話しされたのだ。
片岡町長はお話を伺った時にすでに3期目ということだったが、町長自身がリーダーシップを発揮してぐいぐいと街をけん引しているという印象だった。その話の中で、赤字だった町立診療所を改革したり、風力発電に取り組み町の財政改善に寄与しているなど、自らの成果を自信満々に語っていたことが印象的だった。特に風力発電については、一度躓いたものの片岡氏の主導で成功に導いたものと胸を張られていた。
その風力発電の風車は寿都町市街から離れた海岸沿いに11基が並んでいた。私がお話を聴いたときは売電料が年間3億5千万円とお話していたが、現在では7億円とも伝えられている。そのことも影響しているのだろうか?通過してきた自治体の中では建てられていた公共施設などがなんとなく他町村より立派に見えたのは私の先入観によるせいだったのだろうか?
そんな寿都町がさらなる財源を求めて放射性廃棄物の最終処分場選定の文献調査に応募したことは正しい選択だったのだろうか??
※ 寿都町の道の駅「みなとま~れ寿都」の前面です。
※ 道の駅のすぐ裏には寿都漁港がありました。
◇おまけの八雲町(熊石地区)
実は国道229号線は、通過した乙部町とせたな町の間に八雲町があったのだ。その部分は旧熊石町にあたる。その旧熊石町は2005年に八雲町と合併して八雲地用に組み入れられてしまったためにパスしたが、熊石地区にレポしたいスポットがあったので最後にレポすることにする。
■奇岩雲石
※ ご覧のような不思議な形をした岩石が積み重なっていました。
熊石地区の「奇岩雲石」は国道229号線上に道路標識に案内が出ていたのだが、周りに駐車場もなく、どこがそれなのか分からなかった。案内板からしばらく走ったところで、地元の方を見つけたので聞いてみると、通り過ぎてかなり離れてしまっていることを教えられた。戻って近くの民家横に路上駐車させてもらい、「奇岩雲石」に近づいた。
なるほどそれは「奇岩」と呼ぶにふさわしい形態をしていた。まるで雲のような形をした岩だった。その岩の上には小さなお社が建てられていた。そこには「奇岩雲石」についての説明書きがあった。それによると、「450余年前、アイヌの酋長タナケシが和人の頭領蠣崎義弘配下の工藤九郎左衛門祐兼(すけかね)とその弟祐致(すけとき)が奇岩雲石まで敗走したとき、にわかに黒雲がわき起こり稲妻が鳴り響き、あたりは真っ暗闇と化したのです。アイヌ軍は驚いて引き下がり祐致はその隙に逃げ去りました。後に戦は和人が勝利し、祐致はその戦勝に感謝してここに八雲神社を建立しました。」とあった。
寿都町を過ぎ、岩内町からはこれまでも何度かレポしたことがあるのでパスすることにする。その後私は岩内町⇒仁木町⇒余市町⇒小樽市を通過して、自宅へ帰着した。
4日間の合計819Kmを走破した長い長い「道南の旅」4日間だったが、中身の濃い4日間でもあった。