田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

「古代エジプト展」を視る!!

2022-07-21 10:25:10 | 作品展・展覧会等

 7月10日から始まっていたライデン国立古代博物館所蔵の「古代エジプト展」に昨日、満を持して足を運んだ。古代エジプト人が紀元前3,000年前にもはやヒエログリフという象形文字を持っていたことが私にとっては一つの驚きだった。

       

 北海道立近代美術館で開催されているライデン国立博物館所蔵の「古代エジプト展」は大変な人気である。連日、続々と観覧者が詰めかけているのが我が家から見て取れる。先日18日は「海の日」で祝日だったが、開館前の9時30分には入口前に長蛇の列ができていた。その数は百数十人が行列を作っていたように見えた。「私もいつかは…」と思っていたが、行列を見ていささか恐れを抱いた。そこで考えた作戦は、夏休みが始まる前の平日の午後、しかも閉館前が狙い目ではと考えた。

 私は作戦どおり昨日20日(水)午後3時に近代美術館に向かった。作戦はまあまあ的中したのではと思う。観覧者はけっして少なくはなかったが、大混雑という状況ではなかった。

   

 展覧会はオランダのライデン国立古代博物館が所蔵する大小250点のコレクション(出土品)が展示されていた。そこで印象的だったのは、出土品の中に彩色されているものが多かったこと。そして、ヒエログリフ” と称される象形文字が彫刻されていることだった。この象形文字を19世紀初頭、フランスの研究者シャポリオンが解読したことによってエジプト研究は飛躍的に進んだという。

 そして今回の展覧会の目玉は、ミイラとそれを保管していた豪華な棺が10点以上展示されていたことだ。古代エジプト人は来世での永遠の生があると考え、位の高い人たちは遺体を豪華な棺に入れ、副葬品にもたくさんの豪華な品々を添えたといわれ、それらが数多く展示されていた。棺の表面には “ヒエログリフ” がびっしりと描かれているのも印象的だった。

   

    ※ 近代美術館の中で唯一写真撮影が許されたところにあった「内棺」の模型です。この棺(右側)にミイラを入れ、左側の蓋をしたようです。これは内棺で、さらにこれを外棺で覆い埋葬したようです。

 また、もう一つの呼び物は全身を包帯に包まれたミイラをCTスキャンによって内部を透視する画像が公開されていたことである。技術の進展が古代文明の解明に大いに寄与している一例かと思われた。

   

   ※ 近代美術館の西側エントランスです。18日の開館前はここがびっしりと観覧者で埋まっていました。

 それにしても、と私は考えた。なぜ古代エジプトの貴重な出土品がオランダに保管されているのだろうか?と…。ライデン国立古代博物館には約25,000点ものエジプト・コレクションが収納・展示されているという。それはオランダがエジプトの地で発掘調査を続けてきた結果かもしれない。また、19世紀から20世紀にかけてオランダが世界に冠する海洋国家だったことも影響しているのだろう。おそらくエジプト一国では 古代エジプト文明の解明もここまで進んでいなかったことは十分予想される。また、これら出土品がオランダで保管されていたからこそ、私たちが今日札幌で目にすることができた、ということも言えるだろう。それにしても…、という思いが私の中では拭えない。

 それはまた、私が若き日に訪れた体験を持つ、ロンドンの大英博物館、パリのルーブル美術館の膨大な海外からのコレクションを目の前にしたときも同じような思いに駆られたことを思い出している…。


北区歴史と文化の八十八選巡り №10

2022-07-20 14:00:57 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

※ 蔵出し第3弾である。№9で新琴似地区にある新琴似神社境内の9件を一挙レポしたが、新琴似地区では3件が残ってしまったので、その3件をレポする。

 今回レポする3件はいずれも当時を偲ぶ具体物が無いという、なんともレポしづらいものばかりが残った。レポする側としては苦しいがお付き合い願いたい。

42〉歌人・若山牧水来訪の地 

   

    ※ 現地で来報の地と分かるのはこの看板一枚だけでした。

 大正時代というとまだまだ首都圏との交流が難しかったと思われるが、歌人・若山牧水は道内の歌人と交流があったようだ。下記の説明文にも出てくるが、この地に居住していた歌人・吹田晋平と一夜歓談を楽しんだようだ。その地は、現在の新琴似小学校の直ぐ近くで、ちょうど新琴似神社の道路向かいにあたる地である。周りには当時を偲ぶものは何もなく、説明板だけが道路脇に立っていた。その説明板には次のように書かれていた。

   

   ※ その看板は建物の片隅に設置されていました。右奥の建物は新琴似小学校の校舎です。

   

    ※ 来訪の地の看板は道路を隔てて、新琴似神社の向かいに設置されていました。

「旅と酒をこよなく愛した歌人・若山牧水が喜志子夫人を伴い、この地を訪れたのは大正15年(1926年)11月14日。牧水が主宰する歌詩(誌?)「創作」の社友・白水春二宅で一泊。新琴似短歌会同人と歓談した。ときに42歳。新琴似で詠んだ歌はないが、紀行文の一節に「咫尺(ししゃく)は辯ぜぬ(注:視界がきかず、近い距離でも見分けがつかないこと)という吹雪に出會ったのは(中略)札幌から新琴似村に行く宵闇のなかであった」と記されている。そして翌朝、30センチほど積もった雪の中を、同社友・吹田晋平の仕立てた馬そりに乗り、鈴の音をききながら札幌へ向かった。」と記されています。

          

          ※ 歌人・若山牧水の顔写真です。

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 

〔訪問日〕 6月6日

 

43〉新琴似歌舞伎の跡地

   

    ※ 新琴似歌舞伎の跡地も、この看板だけが当時を偲ぶものでした。

 この新琴似歌舞伎座の跡地も何の形跡も残ってはいなかった。跡地にはニトリ麻生店が建っていたが、劇場跡と考えると現在のニトリ店舗の敷地ほど広くはなかったとしても、なんとなくそうした劇場が建っていた跡かなぁ、と思わせる広さだった。その道端に立っていた説明板には下のような説明が書かれていた。

   

    ※ 跡地と思われる所には、現在「ニトリ」の大きな店舗が建っていました。

   

   ※ 跡地から少し行くと、地下鉄麻生駅があり繁華街が近いところに建てられていたようです。

 「明治30年頃から20年後の大正5年(1916年)まで、新琴似では農村青年を中心に開拓を支える慰安として歌舞伎が華やかに演じられていた。当初は、新琴似神社境内で上演されていたが、最盛期には屯田兵2世も加わり明治43年(1910年)には収容能力が310人の常設劇場「若松館」が開設された。ここはその劇場の跡地である。道内の農村芸能史上、常設劇場が建設されたことは珍しいことであり、同時代に存在した篠路歌舞伎とならんで北区の貴重な農村文化史を語る。」と記されていた。

           

          ※ 当時の新琴似歌舞伎の舞台の様子を伝える写真です。

 〔住 所〕 北区新琴似7条1丁目 

〔訪問日〕  6月6日

 

〈44〉帝国製麻琴似亜麻工場跡

   

 この工場跡も工場跡は跡形もなく、その跡地は現在の麻生球場付近と言われている。工場関連施設は球場付近だけではなく、もっと広大に広がっていたようである。下記の説明にもあるように工場長宅があったと言われているところは、麻生球場からはかなり離れたところだった。下記の説明にもあるようにアカマツが残っているところを探したが、なるほど住宅街の細い通りにアカマツの古木が立っていた。面白いと思ったのは、細い通りの半分を占めるようにアカマツが立ち、通りを狭めていたことだ。車一台がようやく通ることができるほど狭いのだが、付近の住民は納得しているのだろう。説明板は下記のように説明されていた。

   

   ※ 帝国製麻琴似亜麻工場は、現在の麻生球場の当たりだったと伝えられています。

 「明治7年(1874年)当時ロシア公使・榎本武揚が開拓使長官黒田清隆にロシア産の亜麻種子を送ったのが、本道の亜麻栽培の始まりであったと言われている。
 明治20年(1887年)に後の帝国製麻株式会社となる亜麻会社が発足。現在の麻生町一帯の約8万坪(244,000平方メートル)の地に製線工場を建設し、同23年に操業を開始した。明治後期、亜麻事業は全盛期を迎え隆盛を続けたが、昭和20年代に入り原料のコスト高や化学繊維の進出などで、工場は閉鎖の運命を余儀なくされた。昭和32年(1957年)のことである。ここは、工場長宅があったところで、当時からのアカマツが残っている。工場は現在の麻生球状付近にあったと言われている。」

          

    ※ 当時の工場長宅の前にあったアカマツが伐採されずに残存していました。

    

    ※ そのアカマツは写真のように道路を遮るように立っていました。地域の人たちは不便なのではと思いますが、不便をしのいで歴史を護っているということなのかもしれません。

〔住 所〕 北区麻生町3丁目 

〔訪問日〕 6月6日

※ 八十八選巡りもちょうど半分の44ヵ所を終えた。どうやら今年中には終えることができそうである。


PMFクラシックLABO♪ ~ドイツ編~

2022-07-19 15:48:38 | ステージ & エンターテイメント

 私の今夏のPMFが始まった。これから何度かPMF関連のコンサートが待っている。その第1弾として、クラシック音楽入門講座(?)クラシックLABO♪ ~音楽を旅するドイツ編~ を楽しんだ。

        

 札幌の街は今、SAPPOPRO CITY JAZZ 2022Pacific Music Festival 2022(PMF)」が交差するように市内各所でコンサートが開催され、音楽ファンにとっては至福の期間を迎えている。クラシックファンとはおよそ言えない私だが、ここ数年(といっても3年ぶりの開催だが)PMF関連のコンサートを楽しんでいる。今夏も安価なコンサートを中心に何本かのコンサートを聴くことを楽しみにしている。

 昨日18日午後、その第1弾としてPMFクラシックLABO~音楽を旅するドイツ編~」が札幌コンサートホールKitaraで開催され参加した。

   

   ※ 開演中のカメラはもちろんNGのため、開会前にパチリと。ステージには二台のピアノが鎮座していました。

 クラシックLABOとは、クラシック音楽の魅力を多角的に楽しむ音楽講座、と紹介されている。つまりあるテーマを設定し、その音楽に関連する解説を聴きながら、音楽を楽しむという趣旨の音楽普及・教育プログラムとPMFでは位置付けているようだ。

 実はPMFのクラシックLABO♪は今年の3月18日に「音楽を旅するイタリア編」として第1回を実施しており、私はその回にも参加していて(そのときのレポはこちら⇒)今回はその続編ということになる。

 今回のドイツ編のテーマは「ドイツ “三大B” にアプローチ」と題して、2台のピアノ演奏とお話で構成されたものだった。「ドイツ三大B”とは、ドイツが生んだ大作曲家である「J.S.バッハBach)」、「ベートーヴェンBeethoven)」、「ブラームスBrahms)」の名前の頭文字がいずれも「B」で始まるところから、そう呼称されているということだ。

 LABOはその “三大B” の作曲家についての蘊蓄をナビゲーターである飯田有抄さんが語り、ピアノデュオのpiaNAの二人(西本夏生さん。佐久間あすかさん)が作曲家の代表曲を演奏するという形で進められた。また「“三大B”だけじゃない!」として、メンデルスゾーンとシューマンというやはりドイツを代表する作曲家についても触れるコーナーがあった。そうして進められた今回のLABOで演奏された曲は…。

◆主よ人の望みの喜びよ BWV147 /J.S.バッハ

◆トッカータとフーガ ニ短調 BWV565 /J.S.バッハ

◆交響曲 第5番 ハ単調「運命」/ベートーヴェン

◆交響曲 第9番 ニ短調 /ベートーヴェン

◆交響曲 第1番 ハ短調 /ブラームス

◆交響曲 第2番 ニ短調 /ブラームス

◆ハンガリー舞曲 第5番 /ブラームス

◆春の歌 /メンデルスゾーン

◆ピアノ五重奏曲 変ホ長調 /シューマン

 飯田さんはクラシック音楽のファシリテーターとして活躍しているだけあって、その蘊蓄は奥が深く音楽家を理解するうえで興味深いお話をいくつも聞くことができた。

          

 またpiaNAの二人は、国内のみならずヨーロッパでも演奏活動を行う実力派で、確かな演奏は聞き応えがあった。特に交響曲を二台のピアノだけで紡ぎ出す音はオーケストラとはまた一味違った趣を感ずることができた。

      

 興味深かったのは、シューマンのピアノ五重奏曲をpiaNAの二人だけでは足りず、飯田さんも加わって一台のピアノの鍵盤上に5本の腕が乗っかって演奏したときだった。飯田さんは「大変緊張した」と語っていたが、面白い試みだった。

 PMFクラッシックLABOは、これで二カ国を取り上げたことになるが、はたして続編はあるのか?あるとしたら次はどこの国だろうか?続編があるのであれば次も参加してみたいと思っている

※ 登場した2組の方々の写真はウェブ上から拝借しました。


パーク ジャズ ライブを楽しんだ!?

2022-07-18 10:57:18 | ステージ & エンターテイメント

  3年ぶりの開催とあって、楽しみにしていたSAPPORO CITY JAZZ 2022の一環であるPARK JAZZ LIVEだったが、私のリサーチ不足と天候不順のためにやや消化不良に終わった感が強いが、それでもたくさんのアマチュアミュージシャンの演奏を楽しんだ!                               

 7月16~17日の2日間日程で「札幌がジャズの街になる」というコンセプトで、市内10か所において300組のミュージックバンドが演奏を繰り広げる「PARK JAZZ LIVE」が展開された。

 私は3年前に開催されたとき、2日間ともSTVホールに朝から夕方まで通いつめ、ビッグバンドの演奏に浸ったことを思い出し、今年もSTVホールに通おうと思っていた。“ジャズ” と一言で言ってもその音楽性は実に幅が広いと私は解している。その中で私が最も魅力を感ずるのはビッグバンドが繰り出す分厚いサウンドである。そのことを期待して、私は開演時間の11時にはSTVホールの座席に腰を降ろしていた。STVホールを紹介する添え書きには「ビッグバンド、フュージョン等迫力のある演奏ならココ!」と書かれていたことでSTVホールを私は選択したのだ。

   

   ※ STVホールのトップバッターを務めた「札幌市民楽団」のステージです。

 トップバッターは「札幌市民楽団」と称する総勢14名のバンドだった。日常は吹奏楽を主として演奏しているそうだが、この日はジャズテイストを纏った曲を演奏してくれた。いよいよ始まった!その後に期待しながら、次々と演奏されるバンドを演奏に聴き入った。ところがどうも私が期待するものとは様相が違っていた。3年前はJazz Orchestraとかジャズバンド部という名がずらーっと並んでいたのだが、今回はそれが見当たらなかった。その後、「TIGHT LINE」、「Funk@Holic」、「AXIA」という4名、8名、5名のバンドの演奏を聴いたが、どうも私の期待とは違うフュージョン系の音楽ばかりだった。

   

   ※ 「Funk@Holic」の女性ボーカリストは舞台慣れしていて、存在感のあるステージを披露した。

 パンフを眺めていると、どうやら私の期待のバンドは「メイン会場」と位置付けられている「大通公園2丁目」会場に集結していることが判明した。そこでSTV会場で4組まで聴いた後、私は大通公園2丁目会場に移動した。

 移動して聴いたバンドは、「SAPPORO CITY JAZZ VOICES」という8人の女性ボーカリストと4名のバッグバンドによる演奏だった。8名のボーカリストはワークショップで習い始めてまだ3ヵ月程度ということで初心者の域を出ない感じだったが、バンド演奏が多い中では新鮮な感じと一生懸命歌おうとする彼女たちの姿が好ましかった。

   

   ※ 「SAPPORO CITY JAZZ VOICES」の初々しい8人のボーカリストたちのステージです。

 そして東京、千葉から来たという「Passingrain」というグループは遠征してきただけに実力も十分で、特にアルトサックスの音は素晴らしかった。

   

   ※ 私が聴いた中で、この日の№1プレイヤーは、「Passingrain」のアルトサックスの奏者だった。

 その後、「fate」、「DOUBLE VIRTUE」という初舞台や久しぶりの舞台だというバンドの演奏の後、ビックバンド「明治大学 Sounds Society Orchestra」の17名が登場した。演奏はさすがに中央でもまれているだけあって、軽やかに迫力あるサウンドを聴かせてくれた。う~ん、やっぱりビッグサウンドの音はいいですねぇ~。

   

   ※ 「明治大学 Sounds Society Orchestra」の実力あるサウンドを聴くことができました。

 その後も演奏は続いたのだが17時が近くなったのでここで私は帰宅することにした。加齢と共にスタミナが無くなってきたことを感じてしまった。

   

   ※ 16日はこのようにアウトドアでも気持ち良く聴くことができたのですが…。

 翌17日である。この日も私は出陣した。自宅を出るとき、ポツポツと雨が降ってきたのが気がかりだったが、本降りにはなるまいと思い、会場の大通公園2丁目会場に開演時間の11時に着いた。

 この日のトップバッターは「Enju ラテンオールスターズ」という総勢25名のビッグバンドだった。私は3年前にもSTVホールで彼らの演奏を耳にし、「楽しいバンドだなぁ」という感想を持っていたが、この日も3年ぶりというステージで、ラテンミュージックを楽しそうに迫力あるサウンドで聴かせてくれた。また、同時にラテンミュージックとあってサンバのリズムが心地よかったが、なんとダンサーまで登場して楽しませてくれた。

   

   ※ 「Enju ラテンオールスターズ」の楽しいステージで17日のパークジャズライブは始まったのですが…。

   

   ※ 雨にも負けず、サンバの踊りを披露してくれたブラジル人(?)の若人たちです。

 ところが!演奏前から雨が本降りとなって、間断なく降り続く状況となった。「Enju ラテンオールスターズ」の演奏が終わった後、次の演奏までたまらず地下街へ避難した。そして次の「庄子篤宇史とハバイスデーズ」の演奏を聴いたのだが、どうも雨が気になって音楽に集中することができない。しかも雨のために椅子に座ることも出来ない。私はこの後の「旭川南高校ジャズ部」、「中の島小学校BECON」、「Mt.Yotei Jr.Jazz School」、「広尾サンタランド・ジャズスクール」、「サッポロジャュズクワイア」などの演奏を楽しみにしていた。しかし、“雨にも耐えて” という根性を持ち合わせてはいない。泣く泣く断念して会場を後にしたのだった。

   

   ※ テレビ塔を背はにしての絶好のロケーションだったのですが、雨には勝てませんでした…。

 ということで、今年の「パーク ジャズライブ」は消化不良に終わってしまった感が強い。来年はぜひとも青天の下での開催となり、思いっきりビッグサウンドの音を楽しみたいと思っている。 


ガーデンフェスタ北海道2022を覗いてみました

2022-07-17 16:55:26 | イベント

 花好きを自認している私である。現在開催されている第39回全国都市緑化北海道フェア「ガーデンフェスタ北海道2022」を見逃すわけにはいかない。会場の「はなふる」は が持っているポテンシャルを十分に生かした数々の展示に溢れていた…。

   

 第39回全国都市緑化北海道フェア「ガーデンフェスタ北海道2022という全国的なイベントが開催されるとあって、一度は覗いてみたいと思っていた。ところが気が付いてみると会期が7月24日で閉幕と聞いて、慌てて一昨々日の7月14日に「ガーデンフェスタ北海道2022会場の恵庭市に車を走らせた。   

 会場は恵庭市の道の駅「花ロードえにわ」の背後に大きく広がって展開していた。道の駅の駐車場は満杯状態で、出車する車を待ってしばらく待ってなんとか駐車することができた。(後で知ったのだが、少し離れたところに大きな駐車場が用意されていた)

   

   ※ 恵庭市の道の駅「花ロードえにわ」の前面です。

 フェスタの会場は「はなふるエリア」と名付けられて、道の駅「花ロードえにわ」の背後に広がっていた。これまで何度も「花ロードえにわ」には立ち寄ったことがあるが、道の駅の背後にあれほどの広大な空間が広がっているとは知らなかった。

 まずは道の駅から会場に向かうエントランスに立体花壇(というのだろうか?)が歓迎門のように飾られていた。

   

   ※ 道の駅「花ロードえにわ」の裏玄関を出るとこのような立体花壇でガーデンフェスタに導かれます。

        

        ※ 上の立体花壇と対するようにしてもう一つの立体花壇が立っていました。

         

        ※ その裏をちょっと覗いてみると、ご覧のようにして花が管理されていました。  

 そして恵庭市の観光ガーデン「えこりん村」が提供する「キッチンガーデン」には野菜や果樹、ハーブなどがデザインされて植栽されていた。

   

   ※ 野菜、ハーブ、果樹などがデザインされて植栽されていた「キッチンガーデン」です。

 その先にはコンテナガーデンハンギングバスケット立体花壇などが連続的に配置されていたが、そこではフェスタを運営するスタッフが花の手入れを行っていた。こうしたフェスタでは絶えず最良の状態で花を展示しなければならないためにスタッフの苦労も大変なものだろう。

   

   ※ 最近はちょっとしたところでも目にするようになったハンギングバスケットです。

   

   ※ 立体花壇の花の手入れをするスタッフの皆さんです。

   

   ※ こちらの立体花壇も立派なものでした。

 その先へ進むと、「中央芝生広場花壇」という丘状の大きな花壇が広がっており、いわばメインエリアといった感じで、さまざまな花がデザインされて植栽されていた。

   

   

   

   

   ※  これらのデザインはさすがに専門家ならではと思わされました。

   

   ※ 会場内のマンホールは写真のようにガーデンフェスタ仕様となっていました。

 この辺りの花の配置など、全体をいかにデザインするかが、専門的なガーデナーたちの腕の見せどころなのだろうなぁ、と思いながら花壇を見て回った。

 最後は「庭園出展」といって企業などが小さな空間にデザインされた庭園を演出しているコーナーだった。こちらは札幌の「花フェスタ」で見られる「ガーデニング甲子園(北海道農業高校ガーデニングコンテスト北海道農業高校ガーデニングコンテスト)」の企業版かな?と思いながら見て回った。

   ※ 金賞を受賞した一部の「庭園出展」を紹介します。

   

   ※ 「森の心地良さと暮らすグランピングガーデン」と名付けられた作品です。

   

   ※ 「のどかな時間」と名付けられた作品です。

   

   ※ こちらは「木のゆくえ」と名付けられていました。

   

   ※ こちらはブログで交流のある吉克さんが「良く特徴を捉えている」と評した「恵庭岳」を模した作品です。

 会場は平日であったにも関わらず多くの見物客で賑わっていた。会場内、道の駅、敷地内にあるカフェ、いずれも混み合っていてランチを摂るには落ち着かない、ということで私たちは会場から近い、地域ぐるみで花を愛していることで有名な恵庭市内の「恵み野地区」に移動して昼食を摂ることにした。恵み野地区は期待に違わず、通りが素晴らしい花に囲まれた市街地を形成していた。

   

   ※ 恵み野駅前で開業する歯科医院のコンテナガーテンです。

   

   ※ 恵み野市街地の歩道の様子です。

   

   ※ こうしたバーコラも歩道上に設けられ、バラの花が鮮やかに咲き誇っていました。  

 わずか半日ではあったが、目の保養ができた「ガーデンフェスタ北海道2022」だった。

 


すず虫の音色に癒されています

2022-07-16 18:50:16 | その他

 毎夜(いや夜ばかりではない)涼やかな音色を部屋の中に響かせてくれるすず虫の音色に癒されている。できれば孵化させて来年もと考えているのだが…。   

   

   ※ このようにケースに入ってまま送られてきました。中には6匹のすず虫がいます。

 我が家にすず虫がやってきたのは7月1日だった。すず虫を購入するための詳しい経過は忘れてしまったが、「郵パックですず虫が届く!」という趣旨の記事を目にしてした。私は以前にも飼ったことがあったのだが、その時に癒された思い出が蘇ってきて、速攻で郵便局に走り注文した。

 今回求めたすず虫は、徳島県の障がい者支援施設が扱っているものだった。私が注文したのは「すず虫のオス4匹、メス4匹、粉末エサ、飾り付け板、草花、コケ、野菜串、赤玉土」がセットになって飼育ケースに入っているものだった。(ちなみに代金は2,600円)

 届いたすず虫はすぐに鳴きだしてくれた。涼やかな鳴き声がなんとも心を癒してくれる。彼らの鳴き声がささくれだった(?)私の気持ちを和らげてくれる。なんとも心地良い鳴き声だ。(鳴き声というが、実はすず虫が羽を擦り合わせている音なのだが)

   

   ※ 写りは悪いですが、そのうちの一匹をズームアップしたものです。

 私は毎朝、粉末エサを容器に入れ、野菜串にナスとキュウリを刺して立て、コケに霧吹きをかけることが日課となっている。すず虫が粉末のエサをかなり食べることが分かって、意外な大食漢に驚いている。

          

 さて、いつまで涼やかな鳴き声を聞かせてくれるのだろうか?時期が来ると卵を産むと取扱説明書には書かれていた。卵を産むとやがて成虫たちは死んでしまうという。そうすると来年の夏に卵が孵化するように保管しなければならない。説明書どおりに挑戦してみようと思うが果たして??          

 それまでの間、しばしすず虫の涼やかな音色を楽しみたい。

 


札幌市のパークゴルフ場めぐり〈42〉清田中央・みどりパークゴルフ場

2022-07-15 16:30:14 | 札幌市のパークゴルフ場巡り

 パークゴルフ場全体が良く整備され、フェアウェイばかりでなくラフの芝生を歩くときにもフワフワとして心地良かった。そのため私は予定外に18ホールもプレイをしてしまった。

※ およそ一か月前に体験して、蔵の奥深くに大切に保管しておいたバークゴルフ体験です。ようやく蔵出しすることができました。

    

    ※ 特別コース名を表す大きな表示もなく、ごらんのような表示があるだけでした。

    

    ※ 駐車場はたっぷりといった感じでした。

 実はこのコースは昨秋に一度訪れていたのだが、レポしないまま時間が経過してしまい、今回改めてもう一度訪れた。このパークゴルフ場は清田区の中でもかなり奥深くの上水道の「清田配水池」の上に造成されたパークゴルフ場である。

   

   ※ ご覧のような広々とした気持ちの良いコースでした。 

 「丘珠空港緑地コ―ス」のように立派な管理棟などはなかったが、簡易な小屋が管理棟を兼ねていたが、地元パークゴルフ同好会の方が管理業務に就いていた。ここで維持管理協力金200円を収めてさっそくプレイに移った。

   

   ※ 管理事務所の建物も簡素なものでした。

 コースは「かっこうコース」と「ヒバリコース」と二つに分かれ合計18ホールが造成されている。コースの特徴としては配水池の上に造成したからだと思われるが、樹木は一切植えられておらず、芝生が全面を覆っているコースだった。その芝生だが、配水池の上に理想的な土壌を載せているからだろうか?芝が理想的に育ったのだろう。フェアウェイの芝も、ラフの芝もきれいに生え揃っていた。特にラフを歩くと、フアフアとしてとても気持ちが良かった。このような体験は初めてだった。

   

   ※ コースの状況が素晴らしいことが写真でもお分かりいただけると思います。   

   

   ※ グリーン周りも非常に良い状態でした。

   

   ※ 多くのㇱ民の方々がプレイを楽しんでいました。

   

   ※ ともかく広々としていて、気持ち良くプレイできるパークゴルフコースでした。

 この日は天気も良く、たくさんの方がプレイをしていて、私のように単独プレイをする者にとっては先がつかえてスムーズにプレイすることができなかった。それでもコースの状態が良かったこともあり、9ホール体験できればと思って訪れたのだが、予定外に18ホール全てを体験した。                                                                         《コース概要等》

〔住      所〕清田区清田9条3丁目地先

〔コース概要〕・18ホール、パー66 総延長約 860m

〔休      日〕水曜日

〔利用時間〕 4/29~9/30  8:00~17:00  10/1~11/10  8:00~16:00

〔駐車場〕有(45台)

〔プレイ料金〕維持管理協力金として200円

〔ティーの用意〕有

〔問い合わせ〕清田中央パークゴルフ同好会コース事務所 ☎080-1890-7044

〔訪問日&私の成績〕22/06/21   かっこうコース 32/33  ヒバリコ―ス 32/33 


道北の旅を振り返る №8 TVドラマ「北の国から」聖地巡り

2022-07-14 16:22:31 | 道内の旅

 TVドラマで登場した主人公・五郎の家は富良野市麓郷地区に点在していたが、富良野市からは想像以上に遠かった。最初のドラマが放送されてから40年、スペシャルドラマが終わってからでも20年。ドラマに使われた家がいまだにしっかり保存されていることにこのドラマの影響力を見た思いだった…。

 「道北の旅を振り返る」シリーズも最後である。

 美瑛町の「青い池」を見た後、上富良野町で北海道遺産の「土の館」を見学し、今回の計画で最後となったTVドラマ「北の国から」の聖地巡りが残ったである。

 聖地巡りに赴く前に、JR富良野駅内にある「富良野観光協会」の案内書で「『北の国から』探訪マップ」を入手して、いよいよ聖地となっている各所に赴くことにした。

 最初は1981年に始まったドラマの冒頭に五郎と純と蛍の三人が東京から五郎の故郷・富良野に移住することになり降り立った駅が、富良野駅の隣の「布部駅」だったが、ここをまず訪れた。駅の傍らにドラマの原作者・倉本聡氏が「北の国 此処に始まる」という直筆の看板が下がっていた。

   

   

 それからはドラマが展開された麓郷地区に向かった。この麓郷地区が想像していたよりかなり遠かった。調べてみると、富良野駅から約18kmもあった。遠いはずである。

 最初に私が向かったのは「麓郷の森」だった。ここにはドラマの中で2番目となる「丸太小屋」と、その丸太小屋を焼失してしまったために離農した農家の廃屋を直してすんだ「3番目の家」が展示されていた。(なお、ドラマの中で火事に遭った丸太小屋は別のものを焼失させたことで、2番目の「丸太小屋」が現在も残っているということだ)

   

   

   

   

   

   

   

   

   

 続いては、麓郷地区の最も奥に位置するところに「五郎の石の家」を展示しているところへ向かった。ここには、1981年東京から五郎の故郷富良野に戻った五郎たちが最初に住んだ廃屋同然の木造住宅と、1989年の「北の国から ’87 帰郷」の中で建てた「五郎の石の家」が展示されていた。

   

   

   

   

   

         

   

   

   

   

   

 その「石の家」の横には、昨年(2001年)3月亡くなった黒板五郎(田中邦衛)の記念碑が設置されていた。その碑には「黒板五郎は昭和の男だった 文明に頼らず 金に頼らず 家族を守りきり 原野を駆け抜けた 聰」という倉本聰氏の言葉が碑の裏に添えられていた。

   

   

   

 そして最後は「北の国から 2002 遺言」で登場した「拾ってきた家」の展示だった。そこには廃バスやロープウェイのゴンドラなどが建築材として利用された家が何棟か建っていた。実は私はスペシャルの最終回となった「北の国から 2002 遺言」はほとんど観ていない。そのため何軒かの「拾ってきた家」が保存されていたのだが、その違いが良く分からなかったのはちょっと残念だった。

 このドラマの中で作者・倉本聰は現代文明に対する思いを黒板五郎を通して次のように語っている。 

「物がこんなに捨てられて行くならオイラ、拾ってきて生き返らせてやる! だって絶対失礼じゃねえか。捨てられちまう、そういう物に、それを懸命に作った方々に…。あんたの親爺さんが汗水たらして作ったものを、あんた簡単に捨てられるか? え?」(文中の 、や … は私が付加した) 

 ここに倉本聰氏の現代文明に対する痛烈なメッセージが込められていると私は受け止めた。

   

   

   

   

   

   

   

    

 私が今回の「聖地巡り」で少々自慢したいのは、上記の五郎・純・蛍たちが住んだ家だけではなく、前述した「布部駅」と共に、「中畑木材事務所」、「小野田そば」としてドラマの中に登場した建物もチェックできたことだ。これら「布部駅」はもちろんのこと、「中畑木材事務所」は「麓郷木材工業」の事務所として、「小野田そば」は「小野田旅館」として、それぞれ現役として使われていて嬉しかった。

   

   

 TVドラマ「北の国から」は多くの方が知るTVドラマであるが、ここでおさらいの意味で簡単に振り返っておきたい。TV ドラマ「北の国から」は1981年10月よりフジテレビ系列の金曜劇場で全24話が翌年1982年3月まで放送され、平均視聴率15%という高い視聴率を獲得した。好評を受けてドラマは五郎の子ども純と蛍の成長を追うように以後2年に1度くらいペーススペシャルという形で2002年「北の国から2002 遺言」まで全8話が放送された。その視聴率は最初の帯ドラマの時を上回り、全てが20%以上で、特に最後の「遺言」はなんと38%というお化けのような視聴率を叩き出したことで知られている。

 視聴率が全てではないとよく言われるが、国民の相当数が熱い視線を送り続けたドラマの舞台が、私が生まれ育ち、そして一生を送ろうとしている北海道だったことをちょっぴりとだが誇りにしたいと思っている。

 黒板五郎よ、永遠に…。


道北の旅を振り返る №7 美瑛町「青い池」&「お花畑」

2022-07-13 11:51:12 | 道内の旅

 想像以上にその澄んだ青さが鮮やかだった。そして立ち枯れたカラマツの木々が一層その神秘性を醸し出していた。変に観光地化されていないのも気に入った。一方、観光農園の方は、花の方がイマイチかな?と思ったのだが…。

 7月4日(火)、私は「北海道遺産巡り」の最後の物件、上富良野町の「土の館」を目ざして宿泊地の「天塩川温泉」を出発し、道内を南下する形で上富良野町を目ざした。美瑛町はその際に上富良野町の手前に位置する町だった。

 最初に訪れたのは国道237号線沿いにある「ぜるぶの丘」だった。道路沿いの丘全体に色々な色彩を帯びた花が植栽されていた。「ぜるぷの丘」という名称が私には良く分からなかったのだが、丘のところ立てられていた看板でその謎が解けた。それは「か 丘で遊」の語尾を組み合わせた言葉だと説明されていた。花園の入場料は徴収されず、自由に見て回ることができた。丘の収入は、花園を巡るカートやバギー車の使用料、あるいは売店での販売によって賄われているようだった。肝心の花園の方は、花の最盛期はもう少し後なのかな?と思われた。

   

   

   

      

 続いて、同じ国道237号線を美瑛町の本町を通り過ぎたやはり丘のところに「かんのファーム」があった。こちらは完全に個人が観光農園を経営している形態のようだった。施設的には「ぜぶるの丘」よりは寂しい印象だったが、花の方はこちらの方がやや勝っていたかな?という印象だった。こちらも観覧料は無料で、やはり売店の販売収入が頼りの要だったが、広大な花園を維持管理するのはかなり大変なのではと想像された。

   

   

   

   

 そして車を「青い池」がある、白銀温泉方向に向けた。通称「白金街道」に乗ったのだが、「青い池」という表示がなかなか現れない。不安を感じつつ運転していたのだが、「もう白銀温泉が近いのでは?」と思われたころ、ようやく「青い池」の表示を見つけてホッとした。それくらい「青い池」そのものを大々的に売り出すことはしていないようだった。「青い池」も入場料的なものは徴収していなかったが、駐車料が普通車は500円が徴収された。(後払い方式)駐車場の周りには観光地特有の売店などは一切なく、案内板が一つ設置されているだけだった。(但し、美瑛町指定の公式の売店のようなものが池を一周した後に一軒だけ営業していた)

   

   

 駐車場からそれほど歩くことなく「青い池」が顔を出した。その水面の色は文字どおりコバルトブルーとでも称する色だろうか?見事な色合いの池が眼前に広がった。池を見る人たちは誰もが息をのむようにして池を眺めていた。もちろん私も同様に…。

 遊歩道は池を囲んで半周するように造られていた。それでは、各所から撮った「青い池」をご堪能下さい。

   

   

   

   

   

   

    

   

  ※ トドマツの根元付近を見てください。色合いが若干違います。水の色と水深とも関係がありそうです。 

  私は一昨年秋に世界自然遺産に指定されている「白神山地」を訪れ、その中に散在する「十二湖散策コース」をトレッキングした。白神山地に散在する湖は十二くらいではなく、実際には三十三もあるそうだが、私はそのうち二十の湖を訪れることができた。その中には「青池」と称される湖もあったが、その青さは美瑛町の「青い池」とは比べるべくもなく、圧倒的に「青い池」に軍配が上がるほど見事なものだった。それは私が道民だからということではないですよ。どちらも体験された方は私の意見にきっと同意してくれるに違いない。それほど今回の「青い池」には感動した道北の旅の一コマだった…。


アンダンテ・ウィンドアンサンブル不定期演奏会

2022-07-12 11:41:12 | ステージ & エンターテイメント

 “不定期” と名乗るところがユニークである。弦楽器のオーケストラもいいが、吹奏楽も異なった良さがある。ジェームス・バーンズの「交響的序曲」、吹奏楽の定番(?)「ジャパニーズグラフティ Ⅸ ~いい日旅立ち~」は素晴らしかったぁ~。

        

 7月10日(日)午後、札幌市北区民センターで「アンダンテ・ウィンドアンサンブル」の不定期演奏会を聴いた。不定期と名乗るのだから、どうやら定期的には演奏会を開いてはいない吹奏楽グループのようだ。

 アンダンテ・ウィンドアンサンブルとは、ポスターに書かれていた内容を転写すると、

「2011年3月11日14時46分に起きた、東日本大震災の被災地へ向けて当時札幌近郊の大学、専門学校2年生だけが約50名集まり、2011年5月に初めてのステージを迎える。以来東日本大震災を中心に、熊本地震、台湾地震のチャリティを、その他北海道内の天災の被災地へ向けたチャリティ・コンサートを行っている。自主開催のチャリティのみならず札幌市内のチャリティイベントへの参加やお祭りでも演奏を精力的に行う。2019年度より年3回の自主開催の演奏会を行うことを目標にしている札幌発の有志バンド。2022年で11年目を迎えた。」と自己紹介している。

   

   ※ 彼らのHPから写真を拝借したが、この日の演奏会を終えた後の記念写真です。中央にいるのが浦氏です。

 上記の説明と、この日の演奏会で主宰する浦航史さんのお話を伺うかぎり、恒常的に活動をしている団員はむしろ少数で、不定期な演奏会ごとに集まってくる方たちとチームを編成して演奏会をしているような印象を受けた。事実この日も62名の方がステージに立ったが、浦氏との繋がりだろうか?茨城や兵庫、はてはポーランド、ハンガリー、アメリカなどで音楽修業をされている方たちが馳せ参じていると浦氏が語っていた。

   

   ※ 司会をする主宰者(?)の浦航史さんです。まだ31歳ということだから、彼が20歳の時にアンダンテ・ウィンドアンサンブルを起ち上げたことになる。彼は一部の曲の指揮者も務めた。

 さて、演奏の方だがアンコールを含め全11曲が演奏されたが、曲名を記したものが配布されなかったために、ポスターに記された曲のみを紹介することにする。

 ◆サッポロランドスケープ/下田和輝

 ◆交響的序曲/ジェームス・バーンズ

 ◆ジャパニーズグラフティⅨ ~いい日旅立ち~/金山徹

 ◆ユーレイズミーアップ/ロルフ・ラヴランド

 ◆君の瞳に恋してる/ボブ・クルー

 ◆ブラボーブラス!/星出尚志

 その他

   

   ※ 合奏団の主たる指揮は大谷大学の大隅真人氏が務められた。

 前述したように、吹奏楽の調べも弦楽と調べと趣が違い、その圧倒的音量で迫る演奏もいいものである。個人的な感想だが、特に私が感じ入ったのは「ジャパニーズグラフティⅨ」である。構成曲は「秋桜~プレイバックⅡ~イミテーションゴールド~いい日旅立ち」の4曲で構成されていた。いずれもあの山口百恵の曲である。ご存じのように山口百恵は当時圧倒的に人気を誇り、多くの人に愛された歌手だったが、惜しまれながら結婚と同時に芸能界を完全に引退した。私にとっては20代後半から30代にかけての頃だったが、当時の自分を、世相を、思い出させてくれる懐かしさに浸った一瞬だった。

 主宰者の浦氏の軽妙な司会と、本格的な演奏で楽しませてくれた不定期演奏会だった…。