TVドラマで登場した主人公・五郎の家は富良野市麓郷地区に点在していたが、富良野市からは想像以上に遠かった。最初のドラマが放送されてから40年、スペシャルドラマが終わってからでも20年。ドラマに使われた家がいまだにしっかり保存されていることにこのドラマの影響力を見た思いだった…。
「道北の旅を振り返る」シリーズも最後である。
美瑛町の「青い池」を見た後、上富良野町で北海道遺産の「土の館」を見学し、今回の計画で最後となったTVドラマ「北の国から」の聖地巡りが残ったである。
聖地巡りに赴く前に、JR富良野駅内にある「富良野観光協会」の案内書で「『北の国から』探訪マップ」を入手して、いよいよ聖地となっている各所に赴くことにした。
最初は1981年に始まったドラマの冒頭に五郎と純と蛍の三人が東京から五郎の故郷・富良野に移住することになり降り立った駅が、富良野駅の隣の「布部駅」だったが、ここをまず訪れた。駅の傍らにドラマの原作者・倉本聡氏が「北の国 此処に始まる」という直筆の看板が下がっていた。
それからはドラマが展開された麓郷地区に向かった。この麓郷地区が想像していたよりかなり遠かった。調べてみると、富良野駅から約18kmもあった。遠いはずである。
最初に私が向かったのは「麓郷の森」だった。ここにはドラマの中で2番目となる「丸太小屋」と、その丸太小屋を焼失してしまったために離農した農家の廃屋を直してすんだ「3番目の家」が展示されていた。(なお、ドラマの中で火事に遭った丸太小屋は別のものを焼失させたことで、2番目の「丸太小屋」が現在も残っているということだ)
続いては、麓郷地区の最も奥に位置するところに「五郎の石の家」を展示しているところへ向かった。ここには、1981年東京から五郎の故郷富良野に戻った五郎たちが最初に住んだ廃屋同然の木造住宅と、1989年の「北の国から ’87 帰郷」の中で建てた「五郎の石の家」が展示されていた。
その「石の家」の横には、昨年(2001年)3月亡くなった黒板五郎(田中邦衛)の記念碑が設置されていた。その碑には「黒板五郎は昭和の男だった 文明に頼らず 金に頼らず 家族を守りきり 原野を駆け抜けた 聰」という倉本聰氏の言葉が碑の裏に添えられていた。
そして最後は「北の国から 2002 遺言」で登場した「拾ってきた家」の展示だった。そこには廃バスやロープウェイのゴンドラなどが建築材として利用された家が何棟か建っていた。実は私はスペシャルの最終回となった「北の国から 2002 遺言」はほとんど観ていない。そのため何軒かの「拾ってきた家」が保存されていたのだが、その違いが良く分からなかったのはちょっと残念だった。
このドラマの中で作者・倉本聰は現代文明に対する思いを黒板五郎を通して次のように語っている。
「物がこんなに捨てられて行くならオイラ、拾ってきて生き返らせてやる! だって絶対失礼じゃねえか。捨てられちまう、そういう物に、それを懸命に作った方々に…。あんたの親爺さんが汗水たらして作ったものを、あんた簡単に捨てられるか? え?」(文中の 、や … は私が付加した)
ここに倉本聰氏の現代文明に対する痛烈なメッセージが込められていると私は受け止めた。
私が今回の「聖地巡り」で少々自慢したいのは、上記の五郎・純・蛍たちが住んだ家だけではなく、前述した「布部駅」と共に、「中畑木材事務所」、「小野田そば」としてドラマの中に登場した建物もチェックできたことだ。これら「布部駅」はもちろんのこと、「中畑木材事務所」は「麓郷木材工業」の事務所として、「小野田そば」は「小野田旅館」として、それぞれ現役として使われていて嬉しかった。
TVドラマ「北の国から」は多くの方が知るTVドラマであるが、ここでおさらいの意味で簡単に振り返っておきたい。TV ドラマ「北の国から」は1981年10月よりフジテレビ系列の金曜劇場で全24話が翌年1982年3月まで放送され、平均視聴率15%という高い視聴率を獲得した。好評を受けてドラマは五郎の子ども純と蛍の成長を追うように以後2年に1度くらいペーススペシャルという形で2002年「北の国から2002 遺言」まで全8話が放送された。その視聴率は最初の帯ドラマの時を上回り、全てが20%以上で、特に最後の「遺言」はなんと38%というお化けのような視聴率を叩き出したことで知られている。
視聴率が全てではないとよく言われるが、国民の相当数が熱い視線を送り続けたドラマの舞台が、私が生まれ育ち、そして一生を送ろうとしている北海道だったことをちょっぴりとだが誇りにしたいと思っている。
黒板五郎よ、永遠に…。