「徘徊と表現することで「外出は危険という誤解や偏見につながる恐れがある」として、市は市民や関係団体にも理解を求める」と大府市ではいっているが、でも認知症患者さんの徘徊はやはり危険なのである。これは誤解ではない。この時のJR線路内に入り込んで列車にはねられ死亡した事故もどう見ても危険であろう。ご本人も危険であるし、この列車に乗っていた方も急ブレーキや脱線などでけがをされる場合もあるだろう。どう考えても危険なのである。それを危険ではない、徘徊と言う差別用語は使うべきではないと健常人の行動と同様化させてしまうことに違和感を覚える。
このような痛ましい事故を未然に防ぐにはやはり言葉のみならず周囲の人がある程度気が付くような「区別」できるものを考慮する必要がある。知らない人がみて「あ あの人、少し変だ、このままだと線路内に入り込んで危なさそうだ。ちょっと声がけしよう」という行動につながるような目印や目安は必要だと考える。この用語を変えることが認知症患者の安全を確保することの本質的改善にはならない。
区別はすることは必要であるが、この「区別」を「差別」というのでは、このような事故は今後も減らない。
また列車事故でけがをされた傷病者には「しょうがないでしょう、相手は認知症の方なので何をされても責任はないの。あなた我慢しなさいね」などと理不尽な理由がつけられると、ある意味、別の意味での差別助長に繋がるかもしれないと危惧するのである。
このような痛ましい事故を未然に防ぐにはやはり言葉のみならず周囲の人がある程度気が付くような「区別」できるものを考慮する必要がある。知らない人がみて「あ あの人、少し変だ、このままだと線路内に入り込んで危なさそうだ。ちょっと声がけしよう」という行動につながるような目印や目安は必要だと考える。この用語を変えることが認知症患者の安全を確保することの本質的改善にはならない。
区別はすることは必要であるが、この「区別」を「差別」というのでは、このような事故は今後も減らない。
また列車事故でけがをされた傷病者には「しょうがないでしょう、相手は認知症の方なので何をされても責任はないの。あなた我慢しなさいね」などと理不尽な理由がつけられると、ある意味、別の意味での差別助長に繋がるかもしれないと危惧するのである。