最近、某医療訴訟の経過に興味がありその記事を読んでいる。裁判の流れ上で納得いかないことがある。それは自分の側に不利な証拠や証言は採用しない(公にしない)でよいということである。
よく真実が知りたいとか、真実を踏まえたうえで公正な判断を・・・なんて言っているが、こんなことをしていたらそれは無理だろう。自分の都合のよい証拠のみをとりあげていたなら結局、裁判には真理だとか真実だとかは存在しないことになる。
我々医療従事者の論文では、自分の都合の良い結果だけをとりあげていたら論文にならない。自分のたてた仮説の証明に不利な結果がでたらそれはしょうがないこと。それを自分の仮説の証明のために、不利な結果を隠し、都合のよいデータだけを採用することは「データ改ざん」となり叩かれる。あとでそのようなことがあったと分かったら論文撤回され、その人の医学会での生命は絶たれて二度と学会発表ができなくなる。これは科学を追及する世界では当たり前である。
それが法曹界では自分に都合の悪いデータは出さなくてよいということであれば、真実や真理に基づく判断はないということになる。
司法とは科学ではないことはわかっているが、事実を自分の側にひん曲げて自分の主張を通そうとする姿をみると司法の世界はおそろしいと感じる。
よく真実が知りたいとか、真実を踏まえたうえで公正な判断を・・・なんて言っているが、こんなことをしていたらそれは無理だろう。自分の都合のよい証拠のみをとりあげていたなら結局、裁判には真理だとか真実だとかは存在しないことになる。
我々医療従事者の論文では、自分の都合の良い結果だけをとりあげていたら論文にならない。自分のたてた仮説の証明に不利な結果がでたらそれはしょうがないこと。それを自分の仮説の証明のために、不利な結果を隠し、都合のよいデータだけを採用することは「データ改ざん」となり叩かれる。あとでそのようなことがあったと分かったら論文撤回され、その人の医学会での生命は絶たれて二度と学会発表ができなくなる。これは科学を追及する世界では当たり前である。
それが法曹界では自分に都合の悪いデータは出さなくてよいということであれば、真実や真理に基づく判断はないということになる。
司法とは科学ではないことはわかっているが、事実を自分の側にひん曲げて自分の主張を通そうとする姿をみると司法の世界はおそろしいと感じる。