彼も壮絶な「マーチン探しの旅」をしていた。しかも最高級モデルD-45の悪性サイクルに嵌っていた。これではお金がいくらあっても足りない。彼も自分と同様、初めてMartinを購入する際、試奏してみて「ん? こんな程度の音だったのか?」と疑問に思ったそうである。そして近年の量産品は当たりはずれがなく品質は均一であるものの、昔ほどの質の良さはないと彼も感じていた。したがって過去の中古品を探すしか道はなかったのである。ところがこれも後になって気がついたが1960年代、1970年代のものは、保存状態が悪いものもある。昔のものであればみんなよいわけではない。確かに昔のものは職人の丁寧な手づくりであった。そして近年ものよりも木材が豊富であったためいい材をつかっていたらしい。しかしながらやはり当たり外れも結構あり、今ではそんな程度の悪い中古ものでもビンテージと銘打って高値で売っているショップもあるのだ。しばらくしてからであるが自分も「ビンテージ=良品」ということが幻影であることに気がついたのだ。
友人Mの話をする。彼とは10年くらい前にネットにおけるMartinの某サイトで知り合った。年代も近いし、やはり少年時代は自分と同じようにK楽器で、陳列ケースのMartinを指をくわえてみていた経験があったのである。彼と自分の決定的な違いは彼にはものすごく強いD-45の刷り込みがあったことである。彼はサイトではD-45への造詣の深さで有名だった。おそらくオタク度としては3本の指に入ったろう。「19〇〇年製のD-45は、糸巻きは〇〇製で、表板はジャーマン・スプルース、サイドとバックはハカランダであるが・・・」などとその仕様に関する知識の豊富さはショップの店員以上であった。ところが彼のいいところ?は鼻持ちならないただのスペック・オタクではなく、理路整然として説得力があり、何よりその薀蓄が楽しかったのである。何回か会って話もしたが、彼の薀蓄は自分の指向性と同方向であったので共感できる部分が多かったのである。
それ以後、「Martin刷り込み世代」の多くが陥る、いわゆる「Martin探しの旅」が始まるのである。これはきっと安価モデルだから音が出ないんだと考え、じゃあD-45でもと考えたが、前述のようにあまり自分では思い入れがないため食思がわかない。そう思っていたら、その下のモデルでD-42というものがあった。高級モデルならば絶対にハズレはないと思いこれを買う予定でいた。しばらくしてネットオークションでこのD-42が比較的安価で出ていたので飛びついた。さて家に届いて早速弾いてみた。ところが高級モデルにもかかわらず音圧がない。音はきれいなのだが、か細くて針金が鳴っているようで物足りないのである。「はぁ~」と落胆のため息がでた。当時を知らない今の若い世代には「Martinの刷り込み」はない。だからMartinに固執しないで他の会社のギターに流れるだろう。しかし我々は「きっともっとMartinの中でいい音のものがあるはずだ」と考える。そして今の気に入らないものを売ってまた別のものを買い求めるという果てしない悪性サイクルに陥るのである。これがいわゆる「Martin探しの旅」である。まあ新興宗教のマインドコントロールが解けない状態と同じである。
小さい頃の「刷り込み」とは恐ろしいものである。Martinに対して神格的価値を抱いていた世代は数十年経過してもやはりギターはMartinなのである。少し仕事やお金に余裕も出てきた。ローンを組めば何とかなる。そして楽器店にいってみると今ではMartinの総代理店は某大手楽器店になっており、しかも驚いたことに高級手工ギターだったはずが量産化されて価格も安価になっているのであった。ディランの曲ではないが「時代は変る」であった。さて店頭でおそらく生まれて初めてであろうMartinを手にして試奏した。ついに・・あの感動が体験できるとワクワクした。しかし実際はその逆で唖然として力が抜けたのである。「はぁ?Martinの音はこんなもんだったっけ?」 当時感動した音色などではなかった。量産されたためなのか、木材の種類が変ったためなのか、あるいは自分のただの思い過ごしなのか? とにかく理由は分からないが、安くなっているとはいえ大枚はたいて買う気は起きなかった。
しかしまあこれは価値観の問題ではあるが、どうも自分には現実味がなかった。将来Martinは買うであろうが、あまりにも浮世離れした価格のD-45だけは自分が購入するとはとても思えなかったのである。その後も多くのプロが所有しステージで使用するに至ったが、やはり自分ではピンとこなかったのである。しかしながらこの「とんでもない価格」のギターが頭にインプットされ「いつかは俺も買う」と心に誓った少年が多かったことも事実である。実は友人Mがそうであった。ところがこんな高額商品など社会人になってもそうそう買える訳ではない。やがてこのような夢を抱いた少年達も社会人になり仕事に埋没していくことになる。自分もそうであった。仕事を覚えるまでは余暇に音楽などという心の余裕はまったくなかった。時間などなかったし、少しでも空いた時間があれば疲れ果てて寝ていた。そして徐々に年月が過ぎ仕事もひと段落した。子供の時から30年以上が経過し、過去自分が持っていた夢である「いつかは自分もMartinを持つ」ということが蘇ってくるのである。
1968年にD-45という型番のモデルが発売された。このモデルは戦前にも一時作られていたものであるが、その後ずっと生産が中止されていた。最上級の木材を用いアバロンのきれいな装飾が施された「超ド級」の高級手工ギターであった。それがこの年にまた生産ラインに乗ったのである。ちなみにこの1968年の再生産の輸入第1号は加藤和彦氏が、第2号は石川鷹彦氏が購入したと聞いている(もしかしたら輸入第1号はK楽器で保管してあり、加藤氏のものは2号だったかもしれない)。まあこのあたりの細かい情報についてのツッコミは無用である。ついでであるがその時加藤和彦氏の所有していたD-45は現在、御茶ノ水の某ショップで「not for sale」でガラスケースに展示されている。さて実際、自分は当時ソロで活動中であった加藤和彦氏のコンサートでこのD-45を見たのである。彼がステージで「今度念願のギターを買いました。まあこれで普通乗用車が走りますよね」といったのには驚いた。Martinの、中でも最高級モデルであるD-45の音を聞いたのはそれが初めてであり、そのきらびやかで派手な音に驚いたものである。低音の音圧は腹に響く迫力があり、一方高音の音色の美しさは後年形容される「鈴鳴り」の言葉通りに2個以上の鈴を同時に鳴らしたような音であった。当時自分が聞いたどのギターの音色よりもインパクトが強いものであった。
さてそのMartinであるが当時はD-18、D-28、D-35の3機種が人気モデルであった。とにかく間近で見たことはない・・、いや、さんざんあるといったほうが正しい。それは当時御茶ノ水のK楽器と言うところが日本で唯一の代理店をしており、当時店内のガラスのショーケースには大量のMartinがつるされていた。自分はそこに毎週のように通ってただ指をくわえながら硝子越しではあるが10cmの距離でうらめしそうに穴があくほど眺めていた。1960年代後半でも確か20万円以上の値札がついていた記憶がある。たぶんラーメン1杯80円くらいの時代であった。当然、近くで生音など聞いたことはない。ライブでマイクを通しホールの遠くで聴く程度だったがそれでもその音色と音圧に感動した。しかしながら直接近くで原音に触れて感動したことはなかったのである。まあ周りから「やっぱりMartin は凄い」とさんざん聞かされ続けてきた経緯がある。そのため、音色そのものの価値判断よりも、神格化されたその偶像を崇拝していたのかもしれない。
ちなみに当時のMartinの呼び方は「マーチン」であった。近年になって、これを「マーティン」と呼ぶようにもなったが、後者の呼び方をするのは確実に若い世代であり、当時の熱狂的なマニアからすれば異質なものであると考えられている。さて当時プロがよく使用していたこのマーチンは、まずとにかくにベラボーに高い。おそらく当時の大学出の初任給の数か月分の値段はしたと思われる。もちろん自分の周りで持っていた奴などみたことがない。中学生のころヤマハが主催した全国規模のライトミュージックコンテスト(のちのポップコン)で、マーチンをもって出場していたグループは数えるほどであった。当時から自分は社会人になったら「初任給で絶対に買ってやる」と思っていた。しかし余談であるが後年、社会人になって自分の給料で買ったのはMartinではなくヤマハのピアノであったことが笑える・・・。
これから書くことは友人Mのことである。もちろんイニシャルトークなので知っている人は知っているし、知らない人は全く何をいっているのかわからない。特に趣味の範囲における友人のことなので興味のない人にはチンプンカンプンであろう。さて彼を語るその前に「D-45」について触れる必要がある。この型番を聞いて「あっ」と分かった人はたぶん我々と同行の士である。一方「はて? SLにこのような車体番号はあったか?」と考えた人はこれからの話は面白くもないだろう。この番号は1833年アメリカの東海岸で創立されたMartin社のギターの型番なのである。しかも今でも同社のフラッグシップモデルである。この社のギター愛好家、オタク、信奉者は日本にゴマンといる(はずである)。1960年代に始まった日本でのフォークソングブームに乗ってギターを弾く若者が急増した。この時、日本でもいわゆるスチール弦の国産ギターが量産されたが、おもちゃのような粗悪品も多くすぐに壊れるものや、まったく音が鳴らないものも流通した。その中で高嶺中の高値の花であり、すべての国産メーカーがお手本にしたのがMartinであった。