最近自分が出席する葬儀というものは自分と同年代かそれより年下の人のものが増えてきた。自分だって明日はどうなるか分からない。救命センター勤務時代もいつもそう思っていた。二十歳そこそこのバイク事故で心肺停止の若者などいくらでも診た。昨日はあっても明日はないというそんな刹那的な毎日をおくったこともあった。さてMとは今まで10回もあっていない。そんな人を友人と称してよいものか、またその人の葬儀に出席する自分は場違いではないのかと奇妙な感覚がした。でも葬儀というものは最初から「儀礼」であるのだから、わざわざシャチホコばった儀礼的観念で捉える必要もなかろう。私のほうが少し年長であるが中学時代、お互いは知らぬが同じ行動範囲に生息し、同じ生態をもった生き物であった。それだけで戦友みたいなものである。彼の「D-45をもらってください」という最後の言葉だけにはうなずけないが、彼の薀蓄のほとんどにはうなずけたのである。それだけでもう十分である。ギターを介した彼とのつながりも葬儀に出席することで何となくここでterminateできるだろうと思えた。それぞれ生き残ったものは明日がある。引きずることはやめようと考えていた。ところが・・・。