日中はクソ暑い日が続いているが、夕方、夜、早朝と、とても気持が良い。
外で仕事をしている人には申し訳ないが、この季節、なかなか良いではないか。
朝、駐車場に向かうと、強い日差しでもどことなく風のサラサラ感があり、この感覚はまさしく「小学校のプール」なのだった。
私は苦手だった体育と給食が大嫌いで、特に体育に関しては「生き地獄」になる事が多々あったが、唯一泳ぐことだけは得意だったのである。
それは、母が泳ぎ好きだからなのだろうか。
かすかな記憶をたどると、私がチャプンと水にもぐると、ちょっと離れた所に母の両手見えて、そこまでたどり着くと「よくできたね」となるのである。
それを毎年繰り返し、だんだん距離は遠くなるのを繰り返していくうちに、10m泳げるようになり、小学校のプールで初めて「優越感」なるものが芽生えたのである。
当時の私の小学校では「検定試験」なるものが、夏休みプールに存在していて、10m泳げると黒いゴム(5cmぐらいの)をもらえて、それをプールの帽子に縫い付けるような決まりがあり、15m、25mと泳げる距離が増えるとゴムもその分長くなり、それを帽子に縫い付けることができた。
普段、運動苦手な私はそれを縫い付けてもらうと、ますます鼻高々になるのだった。
なので、小学校の夏休みプールは、ある日は毎日通った。
夏休みのプールカードみたいなものにハンコを押してもらい、このハンコがたくさんあることが「良い」こととされていた。
そして私は喜んで毎日押してもらった。
今思い返すと小学校なんて大っ嫌いだったのに(しかし意思を持っていなかったのでキライと言うことに当時は気付かなかった。)、プールの時間の私だけは、小学生らしい小学生だったと、思う。
小学校のプールでは、「何年生から何年生までの人は、こちらから泳ぎましょう」と言うように、全体を2つか3つぐらいのグループに分けて、片方が泳いでいる時は、そうでないグループはプールの周りに寝そべって、肌を焼く。
当時は紫外線防止と言う概念がなく肌は焼くのが望ましいとされていたり、漂白剤の入ったプールで、メガネをして入ることもなかった。そして女子は更衣室が混んでいると面倒なので、更衣室へ行く手前のスノコ板で平気で着替えたりしていた。(もちろん、私はこっちの部類)
そして、肌を焼く。
あの時のサラサラした風が、今この時分の風にとても似ているような気がする。
外で仕事をしている人には申し訳ないが、この季節、なかなか良いではないか。
朝、駐車場に向かうと、強い日差しでもどことなく風のサラサラ感があり、この感覚はまさしく「小学校のプール」なのだった。
私は苦手だった体育と給食が大嫌いで、特に体育に関しては「生き地獄」になる事が多々あったが、唯一泳ぐことだけは得意だったのである。
それは、母が泳ぎ好きだからなのだろうか。
かすかな記憶をたどると、私がチャプンと水にもぐると、ちょっと離れた所に母の両手見えて、そこまでたどり着くと「よくできたね」となるのである。
それを毎年繰り返し、だんだん距離は遠くなるのを繰り返していくうちに、10m泳げるようになり、小学校のプールで初めて「優越感」なるものが芽生えたのである。
当時の私の小学校では「検定試験」なるものが、夏休みプールに存在していて、10m泳げると黒いゴム(5cmぐらいの)をもらえて、それをプールの帽子に縫い付けるような決まりがあり、15m、25mと泳げる距離が増えるとゴムもその分長くなり、それを帽子に縫い付けることができた。
普段、運動苦手な私はそれを縫い付けてもらうと、ますます鼻高々になるのだった。
なので、小学校の夏休みプールは、ある日は毎日通った。
夏休みのプールカードみたいなものにハンコを押してもらい、このハンコがたくさんあることが「良い」こととされていた。
そして私は喜んで毎日押してもらった。
今思い返すと小学校なんて大っ嫌いだったのに(しかし意思を持っていなかったのでキライと言うことに当時は気付かなかった。)、プールの時間の私だけは、小学生らしい小学生だったと、思う。
小学校のプールでは、「何年生から何年生までの人は、こちらから泳ぎましょう」と言うように、全体を2つか3つぐらいのグループに分けて、片方が泳いでいる時は、そうでないグループはプールの周りに寝そべって、肌を焼く。
当時は紫外線防止と言う概念がなく肌は焼くのが望ましいとされていたり、漂白剤の入ったプールで、メガネをして入ることもなかった。そして女子は更衣室が混んでいると面倒なので、更衣室へ行く手前のスノコ板で平気で着替えたりしていた。(もちろん、私はこっちの部類)
そして、肌を焼く。
あの時のサラサラした風が、今この時分の風にとても似ているような気がする。