津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

利休の死

2007-08-04 23:36:07 | 歴史
 「鷺絵源三郎久重覚書=三齋公伝書」に「利休身上相果候ハ・・」として次のようにある。秀吉の祐筆・木下祐桂は一時期譴責を受けて牢人する。利休とは知音の間柄であったが見舞いもなく立腹する。譴責も解けると利休が訪ねてきたが祐桂の立腹は収まらず、二人の間は修復できない状態になった。ある時祐桂に秀吉が「何か珍しい(面白い?)事はないか」と訊ねるので、利休の娘の事を申し上げた。(その娘をみそめて)利休に対し度々祐桂を使者としたが、利休は首を縦に振らない。その折徳善院(前田玄以)が取り成しをしたが遂に切腹に至った・・・と説明する。利休の死の原因は闇の中にあるが、三齋の伝書がそう語るのは説得力がある。徳善院は利休に対して意趣が有ったとも語られている。それは「胴高を取出シ、肩衝と云て利休ニ見スるを、一円ニ物不言、其意趣ニてなり」としている。木下祐桂にしろ徳善院にしろ人物が小さい。
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三齋様御乗物に利休御乗遊され候事

2007-08-04 16:27:45 | 歴史
 渡辺重春という人が著した「豊前志」というものに、表記の記事があるらしい。宮村典太の「盤桓随筆」に転載されているが未見である。このことを指すのであろうと思われる記事を「鷺絵源三郎久重覚書=三齋公伝書」で観る事ができる。

 初めて知った事だが、「三齋初ハ薩摩屋宗二の弟子也」とある。薩摩屋とは利休第一の弟子といわれる山上宗二のことだが、毒舌の人であったらしくそれが災いして秀吉の不興を買い、耳鼻を削がれた上殺されている。その宗二が「兎角易(利休)の茶を参候ハでハ」と云うので、「易へ望候へバ、不及是非只今御茶可申すとて・・・・・」利休との親しい付き合いが始まったのだろう。ある時天王寺屋宗及が利休と忠興両人を招待した。(内容は略する)その帰り道の事であるらしい。「帰りニハ与一郎殿ノ乗物ニ易を乗て乗物の脇ニかちにて与一郎殿御はしり候て帰し也。 (中略) ・・・易を乗て、かちにて乗物ニ御付候事毎度之事なり」とある。利休を師として対応する忠興の気持ちが伺える。

 利休が忠興を以って七哲の一とする所以であろう。
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