津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家と公卿衆

2007-08-31 22:04:08 | 歴史
 細川家と公卿衆との関係は、藤孝(幽齋)の妹が土御門二位久脩に嫁したのが最初かと思われる。息・泰重は「泰重卿記」を残している。室は織田信重女。信重室は津川(斯波)義近女。その三男三十郎は肥後藩士津田氏である。
 藤孝女・伊也は一色義有に嫁したが、義有が誅伐されたため吉田左兵衛侍従卜部兼治に再嫁している。
 又、藤孝の養女(一色義次の娘)を、正室にしたとされるのが中院通勝であるが、細川家資料では確認できない。通勝は天皇の勅勘を蒙り、19年の長きに渡り幽齋の庇護を受けたが、その間に生まれたのが孝以である。細川家家臣となった嵯峨家があるが、長岡を称した。
 
 忠興の長男・忠隆の息女が西園寺実晴、久世通武に嫁している。公卿暮らしが嫌いだといって西園寺家の二男公義(隋宣)は熊本(菊陽町)で過ごした。
 
 忠興の息女・萬は烏丸中納言光賢に嫁した。その娘彌々は光尚に嫁いで男子を成したが母子共間もなく亡くなっている。忠興の悲嘆振りが伝えられている。この縁をもって烏丸家との濃密な交流が続いて行く。
 
 細川綱利の養女具姫(実父・綱利弟利重)は正徳元年、久我右大臣惟通に嫁した。惟通の子の通兄女・由婦姫が、綱利の孫・細川重賢に嫁している。重賢の嫡男治年の息女就姫(美子)が久我前内大臣通明に嫁した。このように、久我家との間は婚姻による三代にわたる縁がある。久我右大臣通名は「通名公記」を残した。
 
 細川齊滋の息女芳姫は、一度松平齊恒に嫁いだが離婚、のち一条関白忠良に嫁している。

 極めつけは当代護煕氏の父・護貞氏と、近衛文麿侯爵二女温子様の結婚であろう。近衛家と細川家は、宇土細川家、津軽家など深い係わりがある。
 
 
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老犬の夏

2007-08-31 11:20:32 | 徒然
 早暁雨の音に眠りを覚まされた。涼しい風が部屋に流れ込んでくる。カーテンの向こうの半開きのサッシュをあわてて締める。「こりゃー今日は一日涼しかろう・・」と思いながら、ふたたび眠りについた。
 朝目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む光の強さにびっくり、八時頃には30℃を超えてしまった。「勘弁してよ」と言いたくなる。どうやら、この夏も無事に越すことが出来そうな18歳の吾が愛犬も、冷たい地面を探し出して平泳ぎ状態で過ごしている。目も、耳も、嗅覚もそして足の踏ん張りが利かない状態で、よくこの暑さを乗り切ったものだと、毎朝恒例の冷たい牛乳を飲ませながら頭を撫でてやる。歩行が困難でそれでもヨチヨチ家の周りを徘徊し、咽喉が渇いたろうにへたり込んで、水があるところまで帰って来れないでいる。日に二三度、彼の居場所を探して冷たい水を届けるのも、この夏の日課になった。今はまったく入ることのない犬小屋を大掃除しておこうかなーと思っている。
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