津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

一枚の「御印之物」

2007-08-14 13:51:44 | 歴史
 寛永十八年頃のものと思われる「御印之物」に、次のような文書がある。

      わたしかたの事
   合一貫四百六拾弐匁ハ
     右ハ松之介様御たけ様やう様御ひとへ物御かたひら
     御はかま御帯の代被下候まヽさんようこまかに申こ
     につきワたし候まヽ此分殿様へ御申上候て銀子御わ
     たし被下候ハヽ少々こまかなることにつき御こほ様
     ニ同人ハめにかけ申候その■■
         以上
       巳ノ六月廿二日      つる・印
                     かも・印

宛先は西郡要人・浅山修理・堀江勘兵衛・椋梨半兵衛の四人宛てである。
決済印と思われる「fosocawarocu」と刻した、いわゆるローマ字印が押されている。「細川六」であり光尚の印であることが分かる。○に三段に記して有る。

さて上記の文書は、光尚の弟妹たちの着物代の支払いに当てる為に、請求されたものであろう。よくよく調べてみると「竹之介」は「細川尚房」、「たけ」は後に有吉頼母英長に嫁した「竹姫」である。「やう様」というのがはっきりしない。

文書を発した「つる」「かも」についても、その身分を類推する事ができる「御印之物」が残されている。寛永十八年九月廿一日付の「切米扶持方遣候者之覚」と言うものであるが、21名の女中(?)とはしため15名の名前と御扶持高が記されている。「つる」が上位から四人目(廿石四人扶持)、「かも」が五位(拾五石三人扶持)とある。上位七人を除いて「竹之助者」「たけもの」「やヽもの」と分けられている。奉行中とありローマ字が押されているところを見ると、光尚の指示書であろうか。三人に敬称が記されていないし間違いなかろう。
一枚の文書が発するメッセージは多様で奥深く面白い。
コメント
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