文久二年(1862)十二月十九日江戸留守居役・吉田平之助の別宅(お玉が池桧物町)において、松平春嶽に上京を命ぜられた横井小楠の為に友人三人が集まり酒宴を設けた。ここを暴漢が襲い吉田は死亡するわけだが、横井は逃げ出した。藩邸に刀を取りに帰ったという言い訳をしているが、これが事件以降横井の行動を制限させた、いわゆる「士道忘却事件」と呼ばれるものである。(士籍剥奪されて三年間不遇の刻を過ごす)吉田の子・巳久馬(傳太)は若党と二人仇討ちの旅に出るわけだが、慶應四年二月(1868)仇敵が松山に居る事を知り、藩領豊後鶴崎に連れ帰りこの地で仇討ちの本懐を遂げている。五年余にわたる刻を費やした。当時穿鑿役であった曽祖父が残した「吉田傳太復仇一件聞取書」に詳しい。(横井もまた暴漢に襲われて亡くなることになる)
ひい爺様ご苦労さん。(身内の話でごめんなさい)
ひい爺様ご苦労さん。(身内の話でごめんなさい)