寛永十六年細川家は鉄炮百挺を調達すべく動きがある。
覚
一、御鉄炮百丁堺ニて可申付旨被仰出事
一、右百丁之どうらん諸道具御国にて可申付旨被仰出事
一、御鉄砲之薬箱桐ニて弐拾箱造らせ御薬を入大阪へ上せ
置可申旨被仰出事
一、御たて弐拾御留主中ニ申付御夫(天)守へ上ヶ置可申
旨被仰出事
一、百目玉之かわ鉄炮下はりからかねニて弐拾丁可申付旨
被仰出事
右之御道具御留守中ニ相調可申旨被仰出候、代銀相渡候
様ニ可被成下御印、以上
寛永拾六年二月廿二日 (忠利ローマ字印)
奥田権左衛門尉(花押)
奉行中
これには異筆の書入れがある。
「時分をはからい可申付候せと手前より可申付候以上」
丁度一年前の寛永十五年二月、島原の乱が鎮圧された。とはいえ、この後に於いても起りえるかも知れないと言う不安が窺がえる。寛永18年(1641)その忠利が亡くなる。四年後の正保2年(1645)には父三齋が亡くなり、又四年後・慶安二年(1649)には光尚が亡くなり、細川家は大きく変化していく。
覚
一、御鉄炮百丁堺ニて可申付旨被仰出事
一、右百丁之どうらん諸道具御国にて可申付旨被仰出事
一、御鉄砲之薬箱桐ニて弐拾箱造らせ御薬を入大阪へ上せ
置可申旨被仰出事
一、御たて弐拾御留主中ニ申付御夫(天)守へ上ヶ置可申
旨被仰出事
一、百目玉之かわ鉄炮下はりからかねニて弐拾丁可申付旨
被仰出事
右之御道具御留守中ニ相調可申旨被仰出候、代銀相渡候
様ニ可被成下御印、以上
寛永拾六年二月廿二日 (忠利ローマ字印)
奥田権左衛門尉(花押)
奉行中
これには異筆の書入れがある。
「時分をはからい可申付候せと手前より可申付候以上」
丁度一年前の寛永十五年二月、島原の乱が鎮圧された。とはいえ、この後に於いても起りえるかも知れないと言う不安が窺がえる。寛永18年(1641)その忠利が亡くなる。四年後の正保2年(1645)には父三齋が亡くなり、又四年後・慶安二年(1649)には光尚が亡くなり、細川家は大きく変化していく。