津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御印之物 其の二

2007-08-15 14:46:00 | 歴史
 寛永十六年細川家は鉄炮百挺を調達すべく動きがある。

          覚
一、御鉄炮百丁堺ニて可申付旨被仰出事
一、右百丁之どうらん諸道具御国にて可申付旨被仰出事
一、御鉄砲之薬箱桐ニて弐拾箱造らせ御薬を入大阪へ上せ
  置可申旨被仰出事
一、御たて弐拾御留主中ニ申付御夫(天)守へ上ヶ置可申
  旨被仰出事
一、百目玉之かわ鉄炮下はりからかねニて弐拾丁可申付旨
  被仰出事 
 右之御道具御留守中ニ相調可申旨被仰出候、代銀相渡候
 様ニ可被成下御印、以上
     寛永拾六年二月廿二日 (忠利ローマ字印)
                奥田権左衛門尉(花押)
       奉行中

 これには異筆の書入れがある。
  「時分をはからい可申付候せと手前より可申付候以上」

丁度一年前の寛永十五年二月、島原の乱が鎮圧された。とはいえ、この後に於いても起りえるかも知れないと言う不安が窺がえる。寛永18年(1641)その忠利が亡くなる。四年後の正保2年(1645)には父三齋が亡くなり、又四年後・慶安二年(1649)には光尚が亡くなり、細川家は大きく変化していく。
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