津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

昼下がり

2007-08-07 20:24:32 | 徒然
 所用で出かけた帰り道、小川にかかる橋の上から川面を覗き込んでいると、小学生の男の子が声をかけてきた。
「おじちゃん、なんしよっと?」
「うん、メダカがおらんかなーと思うて見よっとたい」
「ふーん」と言いながら、その子も石の欄干に手をかけながら覗き込む。
「おじちゃん、おらんごたるよ」
「・・・・」
「おったらどぎゃん(どう)すっと(するの)」
「うん、捕まえて水槽に入れて飼ってみようと思うてね」
「俺ン爺ちゃんちの側の井手にはおるばってんね」
「君の爺ちゃんは何処に住んどらすと?」
「・・・・爺ちゃんな俺が幼稚園の時死なした・・・・」
「・・・・」

「ここは水の汚かけんおらんよ」
そう言い残してその子は川沿いの道に入っていった。
三年か四年生といったところだろうか。そうすると死んだお爺ちゃんという人は、私とそう替わらない年齢の人だろう。幼稚園の頃彼とお爺ちゃんは、二人して水遊びでも楽しんだのだろう。井上陽水の「少年時代」のメロディが頭をよぎった。そして無性に孫に会いたい衝動にかられた。
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美作国津山藩における「肥後経済録」

2007-08-07 16:34:51 | 歴史
 肥後熊本藩士大村源内の弟荘助は「好学徳実の聞えあるにより、作州津山侯より、熊本侯(細川重賢)にもとめ、世子の保佐となし玉ひ、熊本侯の賢才、国政のことを尋ね」肥後経済録という著作を上梓している。「依之津山の大夫士、此書を秘し、絶えて世にもらさず・・・」と奥書にあるように、世に多いに流通していないらしく、明治42年宇野東風は「余いまだ其の書を見ざれども」と云い、「古城貞吉氏より報じ越された」とその箸「細川霊感公」で紹介している。細川重賢(霊感公)については「銀臺遺事」という文書が存在するが、「その行文雅駿にて、銀臺遺事と伯仲の間にある・・・」と記している。さてこの大村氏やその著作とは如何なるものであろうか。「肥後文献解題」にもその書名を索引目次で発見する事が出来ない。何とか観てみたいものだ。

津山藩松平家は「小栗氏御預人一巻」でご紹介した、越前騒動のあの松平家だが、松平秀康(徳川家康二男)・・忠直(乱行改易)・・光長(越前騒動)と続く、「越前松平家」である。
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