かって福島正則に仕えたという人が意外に多い。上月文右衛門、尾崎金右衛門、志賀小左衛門、黒田(伊丹)蔵人、富田小左衛門等である。正則については、皆様よくご存知の事であろうから特段の説明は控えようと思う。
さて、我が細川藩士だが・・・・
■上月文右衛門 父親は関が原の武功者豊後守景重、文右衛門は幼少の頃から正則の側近くに仕えた。高麗・関が原陣も勤め、正則の信州転封に際して廣島城城明渡しについての行動を覚書にして残した。(上月文右衛門覚書)又自ら正則の肖像画を画いて、正則の菩提寺京都妙心寺海福院に納めた。正則の配所信州にも赴いたが、正則死去後京都で牢人、平野権兵衛・阮西堂の斡旋により寛永20年(1643)、光尚に召抱えられた。5,000石
■尾藤金左衛門 父親は元讃岐18万石領主の尾藤左衛門尉知宣、秀吉の勘気により領国没収、天正18年(1590)切腹を仰せ付けられた。金左衛門はその二男である。正則改易後森美作に仕えたが、寛永12年(1635)忠利に召し出された。寛永15年(1638)天草島原の乱に於いて亡くなった。細川家の奉公わずか三年であった。左着座3,000石
■志賀小左衛門 サイト「福島家臣団」や、ウキペディアの情報他、細川家家臣志賀家の「先祖附」とに埋め難い差異がある。別途検証して後日に報告したい。
■黒田(伊丹)蔵人 元は黒田孝高の家臣であった。福島家改易後は大阪で牢人、綿孝輯録巻20に「黒田蔵人、抱可申由、得其意候事」という書状が紹介されており元和六年(1620)に仕官したことが分かる。蔵人は豊前時枝城主・時枝平大夫の次男である。夫人は加藤重徳女、後室は米田是政女誅伐された飯河肥後の夫人だった人である。資料は子・次左衛門の代で途切れるが絶家したのであろうか。
■富田小左衛門 「父与兵衛重冬が正則臣」とするのが正確であろうか。与兵衛の夫人が有吉立行女である。与兵衛の男子はそれぞれ有吉を名乗っているが、小左衛門は六男父の姓を継いだ。細川光尚の死去に際し殉死した。
いずれも錚々たる人たちである。さすが旧福島正則臣と思わせるものがある。
さて、我が細川藩士だが・・・・
■上月文右衛門 父親は関が原の武功者豊後守景重、文右衛門は幼少の頃から正則の側近くに仕えた。高麗・関が原陣も勤め、正則の信州転封に際して廣島城城明渡しについての行動を覚書にして残した。(上月文右衛門覚書)又自ら正則の肖像画を画いて、正則の菩提寺京都妙心寺海福院に納めた。正則の配所信州にも赴いたが、正則死去後京都で牢人、平野権兵衛・阮西堂の斡旋により寛永20年(1643)、光尚に召抱えられた。5,000石
■尾藤金左衛門 父親は元讃岐18万石領主の尾藤左衛門尉知宣、秀吉の勘気により領国没収、天正18年(1590)切腹を仰せ付けられた。金左衛門はその二男である。正則改易後森美作に仕えたが、寛永12年(1635)忠利に召し出された。寛永15年(1638)天草島原の乱に於いて亡くなった。細川家の奉公わずか三年であった。左着座3,000石
■志賀小左衛門 サイト「福島家臣団」や、ウキペディアの情報他、細川家家臣志賀家の「先祖附」とに埋め難い差異がある。別途検証して後日に報告したい。
■黒田(伊丹)蔵人 元は黒田孝高の家臣であった。福島家改易後は大阪で牢人、綿孝輯録巻20に「黒田蔵人、抱可申由、得其意候事」という書状が紹介されており元和六年(1620)に仕官したことが分かる。蔵人は豊前時枝城主・時枝平大夫の次男である。夫人は加藤重徳女、後室は米田是政女誅伐された飯河肥後の夫人だった人である。資料は子・次左衛門の代で途切れるが絶家したのであろうか。
■富田小左衛門 「父与兵衛重冬が正則臣」とするのが正確であろうか。与兵衛の夫人が有吉立行女である。与兵衛の男子はそれぞれ有吉を名乗っているが、小左衛門は六男父の姓を継いだ。細川光尚の死去に際し殉死した。
いずれも錚々たる人たちである。さすが旧福島正則臣と思わせるものがある。