津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

やめっちまえ

2007-08-26 09:28:31 | 新聞
 今日の熊本日日新聞に、同社が主催する「金婚夫婦表彰」のリスト、3400余組が掲載されている。この行事は、天皇皇后両陛下のご結婚を記念して始まり、この新聞社の一大行事として今年は49回目だそうな。まだやっていると不愉快でしょうがない。例えば私の母の年代(大正3年生まれ)の人は、戦争を経験しご主人を亡くした人が沢山いた。母の結婚生活は10年にも満たず、父は病死した。このような人たちは、この時点で不適格者になったわけである。情報公開がうるさく言われる事は無かった時代、市町村はデーターを公表して協力し各地で表彰式が行われた。私の問いかけに、寂しそうに「片手落ちだねー」と一言言った母の言葉は強烈だった。(差別用語かもしれないが、お許しを) 表彰される方に対しては素直にお祝いを申し上げる。連れ合いが居ない事が、差別として存在している。もう数年前のことだが、あるTV局がこの表彰式が行われる日(?・定かではないが)に、寡婦(夫)でありながら「結婚して50年」を迎えた人に、「花」を贈っている町(村かも)があることを報じていた。お一人で子供さんを育てられるなど、ご苦労の50年に対する敬意である。これこそが「平等」というものだろう。我が意を得た気持ちだった。最近は市町村も情報を出す事が出来ないのだろう、申請の形がとられている様だが、それでも協力の形はとっているらしい。お一人で懸命に老後を生きようとしている人に、「花束」を贈るきめこまやかな配慮は成されないのだろうか。
 さて両陛下は来年金婚式をお迎えになる。熊本のこの行事をお知りになったら、両陛下はどうお思いであろうか。「夫(妻)」を亡くして金婚式を迎える事が出来なかった人たちにも、必ずや優しいお言葉をいただけるものと確信する。
あと10年妻と二人元気であれば、私も有資格者だがきっぱりお断り申し上げる。「有難う」のことばに添えて一輪の花を贈って、妻にはお許しいただこうと思う。

何度か新聞に投稿しようと思ったが、どうせ採用される事は無いだろうとおもいつつ十数年が経過した。私は単なる「肥後もっこす」なのだろうか。私のこの主張に対して、反論も多いと思うが、ご意見を賜れば幸いである。
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旧主を考える-3 田中吉政(久留米城主)

2007-08-26 08:03:39 | 歴史
 田中吉政については、半田隆夫氏の素晴らしいサイト「田中吉政公とその時代」がある。吉政は北近江の出身とされるが、詳しい出自は定かではない。浅井氏の家臣(地侍)であった宮部善祥坊に仕えた。浅井の滅亡後は秀吉の家臣となっている。秀次の宿老となり三万石、天正18年(1590)には57,000余石の岡崎城主となり、文禄5年(1596)には加増され10万石の大名と成った。関が原の戦いでは東軍に付き、戦い敗れて落ち延びる石田三成を捕縛、その功績により筑後32万余石の大名として柳川城に入城した。

 細川藩士国友家は、吉政と同郷の出である。吉政夫人は宮部善祥坊継潤の家臣・国友与左衛門の姉だと伝えられる。宮部継潤の子長房は関が原の折り西軍に荷担没落した。吉政の謀略だとする説がある。国友氏は宮部氏の一族として吉政に着いたのであろう。しかしながら田中氏も、吉政亡き後藩内の対立によるお家騒動があり、藩主忠政が元和元年の大阪夏の陣に遅参、七年間江戸滞留を命じられ元和六年江戸で亡くなり、筑後田中家は断絶する。

 肥後細川家に田中家があるが、これは田中吉政の弟・与左衛門氏次を祖としている。この氏次もまた兄吉政とは折り合いが悪く浪々の末の細川家仕官であった。豊前において忠興に召し出された。2,000石鉄炮頭。
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