宝暦十二年有吉家九代当主大膳(立邑)の時、寵臣某が大奉行堀平太左衛門を呪詛するという事件が勃発した。宝暦の改革は平太左衛門とその閣僚により進められており、三家老は蚊帳の外である。そのような状況の中鬱々たる主人大膳の有様を見て、寵臣某が某寺で祈祷呪詛したというものだが、実は「藩主重賢をも」という企てであったらしい。事は露見し寵臣某や祈祷を行った僧は死罪となった。関係者は国払い、所払いの処分を受けたが、大膳に対しての処分は「永蟄居」である。「先祖の武功家柄に対せられ・・・」ての配慮があった。跡式は弟四郎右衛門が「無相違本知被下置」かれて相続した。さて有吉家の系図を見ると不思議な家督の相続が続く事に気付く。四郎右衛門(立喜)の跡は大膳の嫡子立直が継ぎ、立直の跡は四郎右衛門の嫡子・立憲が継いでいる。その後四代に渡り同様のやり方で、家督が継がれている。執政の間でも「軽くても減知、まづは滅亡にて可有之」という空気があったらしいことが「隋聞録」から伺える。大膳の内室は細川内膳家忠雄女であり、父・祖父とその夫人は細川刑部家から入っている。「先祖の訳」が多分に働いている。大膳の処分は宝暦12年(1762)33歳、その死は寛政12年(1800)71歳であるが、その処分にはいささか首を傾げざるを得ない。余計な事だが・・・・
神風連のことについてより深く理解したいと思い、荒木精之氏の著作を再読してみた。神風連諸士の顕彰は、氏一人にして行われたといっても良かろう。その精神は敬神党の流れの中にあるのだろう。神風連に関する著作の素晴らしさに、何ら異を唱える事はなく、その偉業には只々敬意を表するものである。熊本の文化界の巨魁であり、善きにつけ悪しきにつけての影響力は今日まで及んでいる。声を大にして異を唱える事が憚られるような空気があるし、私の思考は氏とは対極にある。佐久間象山を殺害した河上彦斎の行為を、当然のこととされる考えには同調できない。彦斎を「凶暴な人斬り」と断じた勝海舟などにいたっては、「勝安房のあはれはおのれの怖けくてあしざまにいふ誠のひとを」と手厳しい。神風連諸士のお墓を独力(に等しい)で探し出された事など、恐れ入った行動だが其の時期は戦争の危機にある真っ只中であった。其の頃の発言は皇国史観に満ち溢れたもので、戦争に対する些か危うい発言も見える。それらの行動や発言はそうした時期の、氏の高揚した気持ちがそうさせたのかもしれない。しかしながら氏の発言を以って、神風連諸士の高潔な行動を何ら否定するものではないし、又氏の行動や発言を以って神風連を知りえた事に感謝しなければならない。