津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

夏の置き土産

2007-08-25 09:26:07 | 徒然
 背中が痛い・・・なんと背中のど真中に「あせもの親玉」が出来てしまった。ちょうど鳩尾の裏っ側あたりである。暑くて寝苦しい上に「あせもの親玉」で、大の字状態で寝られない。是が元で些か睡眠不足のこの頃である。
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神風連異聞-Ⅱ

2007-08-25 09:07:23 | 歴史
 文久6年(1861)江戸細川藩邸で、下田・中津の両名が同僚の入江某と口論になり殺された。入江は逃亡するが、両家は家名断絶知行召上となった。残された家族の悲憤は、仇討ちへの執念へと替わっていく。下田の妻田鶴は、家族七人の生活をささえる貧しい生活の中でなさぬ仲の長男恒平、実子哲三を厳しく育て上げる。中津の妻も又五人の家族と共に、家名再興に願いを託して苦しい生活に絶えてきた。事件から10年の刻が流れ下手人入江某が山口藩の手により捕らえられた。細川藩は石原運四郎他一名を山口に派遣、入江某の身柄を引き取った。この石原こそが、後「神風連の挙」に参加した石原運四郎其の人である。下田・中津の妻女二人はその報を得て、何とか仇討ちをしたいと、出立前の石原に懇願したらしい。下手人を熊本まで連れ帰るのが石原らの任務であるが、両家の心情に心打たれ、石貫うつろぎ谷(熊本県玉名市)という所で、下手人入江某を唐丸籠から引出し、下田のわすれ形見嫡子の恒平が本懐を遂げたという。下田・中津の未亡人もまた、本懐の刃を下したという。事件当時九歳の恒平は十九歳の立派な若者となっていた。自らの処分も考えた石原であったが、藩庁からのお咎めは無かった。藩政奉還の(明治4年7月14日)の前日、下田恒平には晴れて父の跡目が許された。また田鶴にはその貞烈をたたえて金子千疋が与えられたという。

 この義挙(明治4年4月16日)は日本で最後の正式な仇討ちだとされている。
「神風連の挙」の五年前、石原運四郎の英断があってのことである。
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