清源院とは細川宣紀の第九女(幾姫・軌姫)で、宇土細川家五代藩主興里に嫁いだ。延享二年正月の事だが、その年の十月興里は亡くなっている(22歳)。わずか十ヶ月にも満たない結婚生活である。その清源院が天明二年肥後国日奈久温泉(現八代市)に湯治のため熊本にやってきている(58歳)。歳の変わらぬ義弟興文(六代藩主・当時は隠居し月翁)が、大津(熊本市の東・現大津町)まで出迎えている。その旅の行き返りの様子を記した紀行文「海辺秋色」「山路の青葉」が残されている。ぜひ読んでみようと思っている。
処で宗家の細川治年(九代当主)室は、宇土の興文女「埴姫」である。男子は各々夭折したため後継ぎ問題が起る。「埴姫」の弟、即ち興文の子立禮(宇土家七代当主)に白羽の矢が立つが、なぜか新田藩を慮って容易に受けなかったらしい。六代宣紀が新田藩から宗家に入り、宗孝・・重賢・・治年はその血脈の中にある。しぶる立禮を応援したのが清源院であった。立禮は宗家に入り十代斎滋となる。天明十七年十一月のことであった。
清源院は寛政六年七十歳で江戸で没している。夫君の分まで長生きした。
処で宗家の細川治年(九代当主)室は、宇土の興文女「埴姫」である。男子は各々夭折したため後継ぎ問題が起る。「埴姫」の弟、即ち興文の子立禮(宇土家七代当主)に白羽の矢が立つが、なぜか新田藩を慮って容易に受けなかったらしい。六代宣紀が新田藩から宗家に入り、宗孝・・重賢・・治年はその血脈の中にある。しぶる立禮を応援したのが清源院であった。立禮は宗家に入り十代斎滋となる。天明十七年十一月のことであった。
清源院は寛政六年七十歳で江戸で没している。夫君の分まで長生きした。