津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

清源院様湯治の旅

2007-08-09 18:22:28 | 歴史
 清源院とは細川宣紀の第九女(幾姫・軌姫)で、宇土細川家五代藩主興里に嫁いだ。延享二年正月の事だが、その年の十月興里は亡くなっている(22歳)。わずか十ヶ月にも満たない結婚生活である。その清源院が天明二年肥後国日奈久温泉(現八代市)に湯治のため熊本にやってきている(58歳)。歳の変わらぬ義弟興文(六代藩主・当時は隠居し月翁)が、大津(熊本市の東・現大津町)まで出迎えている。その旅の行き返りの様子を記した紀行文「海辺秋色」「山路の青葉」が残されている。ぜひ読んでみようと思っている。

 処で宗家の細川治年(九代当主)室は、宇土の興文女「埴姫」である。男子は各々夭折したため後継ぎ問題が起る。「埴姫」の弟、即ち興文の子立禮(宇土家七代当主)に白羽の矢が立つが、なぜか新田藩を慮って容易に受けなかったらしい。六代宣紀が新田藩から宗家に入り、宗孝・・重賢・・治年はその血脈の中にある。しぶる立禮を応援したのが清源院であった。立禮は宗家に入り十代斎滋となる。天明十七年十一月のことであった。

 清源院は寛政六年七十歳で江戸で没している。夫君の分まで長生きした。
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むごう暑かですなー

2007-08-09 12:44:51 | 熊本
 どうも二人は知りあいらしい。スーパーで買い物を終えたらしい老人に、声をかけている人がある。(後に知ったが、この日の気温は36.4度だったそうだ)

○「むごう暑かナー」
●「ほんにいナー。こぎゃん暑か時にゃー、しっか(り)水ばとらにゃーいかんげにゃばいた」
そう言いながら老人は自販機から買ったらしいお茶を飲んでいる。
○「そぎゃんたい。そしてああたは帽子は持たんとかいた。帽子ばかぶらんといかんばいた、暑かて。・・・傘ば持つとんなら、差せばよかろうて」
買い物袋とともに手にしている傘は、しっかりと閉じられたままである。
●「こないだンごつ、とつけむにゃー夕立どん来っといかんと思うて、持って来たばってん・・・・杖替わりたい・・・今日は降らんごたるなー」

○「足のいかんかいた?」
●「いかんなー、日赤(病院)にも行った、電気治療院にも行った。何でんしたばいた。何ちゅうたっちゃ歳だけんナ、骨やつがスカスカたい。しょんなかったい」

○「爺ちゃんナいくつになんなはったかいた」
●「はっじゅうさん(83)になったばいた」
○「そうかいた。ばってん元気で良かなー」
●「膝の痛となかなら最高ばってんなー。ばってん、膝ン悪かちゅーて、命うしなうこっあー無かろう、九十位まじゃー生きるかもしれんばいた」
○「何ば言いよんなはるかいた。百まっでんがんばらじゃー」
●「そぎゃん生きらんちゃーよか」

○「爺ちゃん、こん手ぬぐいば頭ん上に乗せち行きなっせ」
●「わあーよかかいた、すまんなー。後でわきゃーもんにもって行かするけん」
○「なんば、返さんちゃよか・・・。足元に気ぃ付けて行きなっせヨ」
●「ありがとな、ごめん、ごめん」

ゆっくり歩き出した老人を見送ったその人は、何度か振り返りながらスーパーの店内に消えていった。頭に手ぬぐいを乗せて、ゆるやかなスロープになっている駐車場を横切って行く老人の足どりは、百歳を保証するように思えた。
 (立ち聞きしてすみません。熊本弁の解説はあえてしない事にします)
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