肥後加藤清正公・忠広公顕彰会主催の、熊本城築城400年記念シンポジウム「加藤家の謎に迫る」が昨日催された。東京大学の山本博文教授や、備後福山藩・下総結城藩水野家のご当主水野勝之氏ほか九名の方々のお話しを伺った。その中のお一人、鶴崎からお出でになった北川氏は、鶴崎法心寺境内の銀杏の木からとれた「ぎんなんの実」を沢山お持ちに成った。法心寺は清正が鶴崎に建立したお寺であり、この銀杏の木も清正が植えたものだろう。出席された皆さんにお配りして下さいとのお気持ちに、急遽小袋に別ける作業をはじめて300袋ほどを準備、シンポジウム閉会後お持ち帰りいただいた。鶴崎地区は旧鶴崎市から現在は大分市となり、屈指の工業地帯となっているが、未だに肥後藩鶴崎を思う気持ちが強いといわれる。有り難いお気持ちを思い、腹の中に収めるよりも何とか芽立たせてみようと思い、庭の片隅に10粒ばかりを植えてみた。私の頭には、盆栽用の平鉢に並んでいる、数本の銀杏の木の姿が浮かんでいる。
ある道を自転車で走っていると、家並みが100メートルばかり途切れて、竹やぶや雑木が生い茂っている。気が付くと下のほうから水音が聞える。「そうか、白川だ」と気付いた。大きく蛇行した川筋が道路脇まで接近していたのだ。竹やぶを掻き分けてしばし覗き込んで振り返ると、近所の人であろうおばあちゃんが竹箒を手に、怪訝そうな眼差しで此方を眺めている。「この下はすぐ白川だったんですね。知らなかった」と話し掛けると、当たり前だというような顔で無視されてしまった。「藪をはらってガードレールでもつけると、いい景色だろうに」というと、「そらでけん(出来ない)こん藪は風除けばいた(ですよ)」と答えが帰ってきた。なるほどと思いながらも、建築家の端くれとして、風を我慢しながらでも景色を楽しむことは出来ないものかと考えた。金木犀の花がすっかり落ちて、当たり一面の黄色い絨毯もいささか草臥れ気味である。振り返るとさっきのおばあちゃんが竹箒で掃除をはじめていた。・・・ごくろうさま・・・
「於豊前小倉侍帳」の忍之者の欄に野田喜兵衛(15石5人扶持)の名がある。一方同時代の「日帳」をよく見ると、寛永元年(1624)八月十八日の項に「新銭鋳申奉行ニ、野田喜兵衛被申付候事」とある。どうも同一人物とは考えにくい。野田喜兵衛なる人の父は、天草氏(天草本渡城主の家老を務めた人で、天正十七年討死。父親は何故か細川家を頼れと言い残した。丹後で忠興にお目通し「天草の藤の名所ハ聞かさるに野田と名乗るハ武士と知らるヽ」という歌を頂戴している。細川家への仕官は、忠利代である。忠利に殉死しているが、其の紹介には10石3人扶持とある。・・・同一人物だろうか・・・。
曾孫三郎兵衛(250石)が「御暇」を受けるが、「先祖訳有之候子孫」であるとして、養嗣子喜兵衛に(150石)が与えられている。訳とは殉死を差している事は勿論である。
「忍びの者」は島原一揆後全員召し放されたという話が本当であれば、この野田家の存在はどう説明すべきなのだろう。・・・同一人物ではないのだろう・・・(わからん)
曾孫三郎兵衛(250石)が「御暇」を受けるが、「先祖訳有之候子孫」であるとして、養嗣子喜兵衛に(150石)が与えられている。訳とは殉死を差している事は勿論である。
「忍びの者」は島原一揆後全員召し放されたという話が本当であれば、この野田家の存在はどう説明すべきなのだろう。・・・同一人物ではないのだろう・・・(わからん)