津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

分かりました・・村上隆重の没年

2007-11-14 21:10:36 | 歴史
細川小倉藩「日帳」寛永五年九月二十八日項に次のような記載がある。

■村上隆重葬儀 村上景則母危篤
「椋梨半兵衛被申候ハ、八郎左衛門吊(弔カ)、今井(中津郡)にて仕候、ニ三日之御暇被下候ハヽ、参度存候、それより、河内殿(村上景則)御母儀煩きわまり申由、申来候間、今井より直二中津へ参度被申候、さ候ハヽ、可被参由、申渡候事」

ここでは八郎左衛門を村上隆重としている。私がこの文章を注目しているのは、この村上隆重である。この村上氏は村上水軍の一族であり、隆重は村上水軍大将の村上武吉の叔父である。笠岡城城主であった。注目したというのは、どのような史料を見ても隆重の正没年が分からない事である。

村上一族の系図は概略下記の如くである
  隆勝----*----義雅
        *----義忠----武吉
        *----隆重----景広----景則

 小早川景勝の死後、隆重の子景広は請われて細川家に召し出されている(壱万石)。「日帳」によると、その景広は日にちが定かではないが寛永四年に没したようだ。寛永五年正月廿七日、八日にかけて是に係わる記事がある。景則は相続の御礼に上がっている。
そして最初の記事に戻ると、この八郎左衛門が、景則の祖父隆重であることが推測される。とすると隆重は息・景広の細川仕官に随伴して小倉入りしていたことがわかる。その隆重の葬儀が行われる日に、景則の母親(景広室)が危篤であるというのである。その後持ち直したのか、寛永六年十一月に至り「はやきわまり候」状態になり、四日に亡くなっている。この事から、村上隆重の没年は寛永五年九月であることはほぼ間違いない。

 景則は父親の遣領壱万石を相続し、三齋に近侍し八代に入って三齋の死を見取っている。その後肥後を離れるが、その経緯はすんなりとしたものでは無さそうである。


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銀杏

2007-11-14 12:07:02 | 徒然
 私の好きなTV番組の「笑点」に登場する、三遊亭小遊三師匠の「銀杏ひろい」の話はこの時期には打って付けの話だ。思わず「くすり」とさせられる。過日のシンポジウムでは、鶴崎から沢山の「ぎんなん」のお土産を頂戴したが、熊本はまだ収穫の時期にはなっていないのではないかとふと思った。熊本県庁のプロムナードには、肥後54万石にちなんで54本の銀杏の木が植えられている。収穫の時期になると、業者が委託されて一木2,000円ほどで収穫するという話を聞いた。かっては、この時期になると一般市民がビニール袋を手に拾う姿が見られたが、一気に収穫しないと落ちた跡のあの異臭に悩まされるから、業者委託も致し方ないのだろうか。それにしても今年は近くの街路樹も、紅葉には程遠い。銀杏の木も街路樹としてそこここに見られたものだが、「ぬれ落ち葉」が嫌われて段々少なくなってきた。自分の家の前くらいは、街路樹の落ち葉とて掃除をしたものだが、今はそんな風景も減った。何事も今は昔の話になりつつある。
今日はお土産の銀杏の実を焼いて、味と香りを楽しみながらの晩酌と参ろう。
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沼氏

2007-11-14 08:21:23 | 歴史
 小学校(大江小)のクラスメイトに、沼さんという女の子がいた。珍しい苗字でよく記憶している。こんなことを始めてから、細川家家臣沼氏に関係が有るのではないかと思ったりしている。
 幽齋の田辺城籠城に際し、忠興の密使として忍んできた森三右衛門を手引きして、城内に送り込んだ人に毛利隼人がある。寛永初期の史料に毛利氏の名前が見える。同一人物である事に間違いない。この人の子が後、忠興の命により沼氏と改姓するのである。
 忠興の密使の城内潜入を手助けし、後細川家に召し出されたのは毛利氏の他に、遠坂氏、小崎氏などがある。興津氏、井門氏(後・宇土細川家家老)なども同様である。

 毛利氏がどうして沼氏となったのだろうか。毛利氏の主家をおもんばかっての忠興の配慮であろうか。クラスメイトの沼さんは、背の高いほっそりとした美人だったが、どうも顔が浮かんでこない。半世紀ほど経過しているから・・・仕方がない。
コメント (3)
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