細川小倉藩「日帳」寛永五年九月二十八日項に次のような記載がある。
■村上隆重葬儀 村上景則母危篤
「椋梨半兵衛被申候ハ、八郎左衛門吊(弔カ)、今井(中津郡)にて仕候、ニ三日之御暇被下候ハヽ、参度存候、それより、河内殿(村上景則)御母儀煩きわまり申由、申来候間、今井より直二中津へ参度被申候、さ候ハヽ、可被参由、申渡候事」
ここでは八郎左衛門を村上隆重としている。私がこの文章を注目しているのは、この村上隆重である。この村上氏は村上水軍の一族であり、隆重は村上水軍大将の村上武吉の叔父である。笠岡城城主であった。注目したというのは、どのような史料を見ても隆重の正没年が分からない事である。
村上一族の系図は概略下記の如くである
隆勝----*----義雅
*----義忠----武吉
*----隆重----景広----景則
小早川景勝の死後、隆重の子景広は請われて細川家に召し出されている(壱万石)。「日帳」によると、その景広は日にちが定かではないが寛永四年に没したようだ。寛永五年正月廿七日、八日にかけて是に係わる記事がある。景則は相続の御礼に上がっている。
そして最初の記事に戻ると、この八郎左衛門が、景則の祖父隆重であることが推測される。とすると隆重は息・景広の細川仕官に随伴して小倉入りしていたことがわかる。その隆重の葬儀が行われる日に、景則の母親(景広室)が危篤であるというのである。その後持ち直したのか、寛永六年十一月に至り「はやきわまり候」状態になり、四日に亡くなっている。この事から、村上隆重の没年は寛永五年九月であることはほぼ間違いない。
景則は父親の遣領壱万石を相続し、三齋に近侍し八代に入って三齋の死を見取っている。その後肥後を離れるが、その経緯はすんなりとしたものでは無さそうである。
■村上隆重葬儀 村上景則母危篤
「椋梨半兵衛被申候ハ、八郎左衛門吊(弔カ)、今井(中津郡)にて仕候、ニ三日之御暇被下候ハヽ、参度存候、それより、河内殿(村上景則)御母儀煩きわまり申由、申来候間、今井より直二中津へ参度被申候、さ候ハヽ、可被参由、申渡候事」
ここでは八郎左衛門を村上隆重としている。私がこの文章を注目しているのは、この村上隆重である。この村上氏は村上水軍の一族であり、隆重は村上水軍大将の村上武吉の叔父である。笠岡城城主であった。注目したというのは、どのような史料を見ても隆重の正没年が分からない事である。
村上一族の系図は概略下記の如くである
隆勝----*----義雅
*----義忠----武吉
*----隆重----景広----景則
小早川景勝の死後、隆重の子景広は請われて細川家に召し出されている(壱万石)。「日帳」によると、その景広は日にちが定かではないが寛永四年に没したようだ。寛永五年正月廿七日、八日にかけて是に係わる記事がある。景則は相続の御礼に上がっている。
そして最初の記事に戻ると、この八郎左衛門が、景則の祖父隆重であることが推測される。とすると隆重は息・景広の細川仕官に随伴して小倉入りしていたことがわかる。その隆重の葬儀が行われる日に、景則の母親(景広室)が危篤であるというのである。その後持ち直したのか、寛永六年十一月に至り「はやきわまり候」状態になり、四日に亡くなっている。この事から、村上隆重の没年は寛永五年九月であることはほぼ間違いない。
景則は父親の遣領壱万石を相続し、三齋に近侍し八代に入って三齋の死を見取っている。その後肥後を離れるが、その経緯はすんなりとしたものでは無さそうである。