松井岩千代(寄之)は細川忠興六男、元和二年(1616)ニ誕生し、同七年(1621)松井興長の養嗣子となった。岩千代時代の消息があるからご紹介しよう。
寛永六年(1629)七月二十日付けの「日帳」によると、養父興長から岩千代の湯治の届がなされている。未だ14歳で湯治とは何事と詳しく読んでみると、「瘡」の治療の為のようだ。「瘡」とはどういうものかを詮索すると、いかがわしい病気の様に取られそうだが、たんなる悪質なできものなのだろう。
御岩様此中小瘡出来候、爰元にて色々養生仕候へ共、快気無御座候間、豊後の湯へ湯治ニ遣可申と存候、他国へ遣申候ハヽ、江戸へ得御諚候ても遣し可申儀ニ候へ共、豊後之湯ハ御国之内と申、殊ニ差当申儀ニ御座候間、其儀無御座候、其心得仕候へと被仰聞候、一段御尤ニ存候、被仰聞迄も無御座候通、御返事申候事
去る六月十九日興長室(古保・忠興二女)の生母・松丸が逝去し、その忌明けを待つように届けられている。その後の様子を窺いしるものはない。
寛永六年(1629)七月二十日付けの「日帳」によると、養父興長から岩千代の湯治の届がなされている。未だ14歳で湯治とは何事と詳しく読んでみると、「瘡」の治療の為のようだ。「瘡」とはどういうものかを詮索すると、いかがわしい病気の様に取られそうだが、たんなる悪質なできものなのだろう。
御岩様此中小瘡出来候、爰元にて色々養生仕候へ共、快気無御座候間、豊後の湯へ湯治ニ遣可申と存候、他国へ遣申候ハヽ、江戸へ得御諚候ても遣し可申儀ニ候へ共、豊後之湯ハ御国之内と申、殊ニ差当申儀ニ御座候間、其儀無御座候、其心得仕候へと被仰聞候、一段御尤ニ存候、被仰聞迄も無御座候通、御返事申候事
去る六月十九日興長室(古保・忠興二女)の生母・松丸が逝去し、その忌明けを待つように届けられている。その後の様子を窺いしるものはない。