忠利が亡くなったのは、寛永十八年三月十七日、十九日入棺し「御花畑居間の床をはなし、土中に奉置」したという。四月二十八日「御野送仕・・・岫雲院の地ニ而御火葬」された。翌二十九日より五月五日まで法事があり、「御家中之面々晦日より五番ニ分、参拝焼香仕候」とある。この間一部を除き、殉死の面々が切腹する。継嗣光尚は五月五日遣領相続、六月十四日下国した。そんな中、四月十三日に「御家中之面々落髪之儀ニ付触」が成されている。「御知行被下候衆ハ何も可為落髪事」とあり、子供についても「本ゆひきり可申候」としている。「御扶持を被下候者」は「もよゆひ」を切るように触れている。
「元結を切る」というのは理解できるが、「落髪」とはどういうことであろうか。まさか全員入道しろという事とは思われないし・・・この「触」ではその期間を知ることはできないが、しばらくの間頭上にちょん髷のないお侍が城下町に満ちていた事になる。
「元結を切る」というのは理解できるが、「落髪」とはどういうことであろうか。まさか全員入道しろという事とは思われないし・・・この「触」ではその期間を知ることはできないが、しばらくの間頭上にちょん髷のないお侍が城下町に満ちていた事になる。