津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

七曲り

2007-11-24 13:20:28 | 熊本
 かって国道三号線は熊本城内を抜けていた。豊前街道である。京町台から熊本城の石垣下を抜けて、市役所前に出た。交通量の増大と共に大きく東に迂回して清水--黒髪--坪井--水道町へと新たな道が作られ現在の三号線となった。家老・米田家屋敷(現必由館高校-元熊本市立高校)の東側に、七曲りと呼ばれる、クランク状の路地に囲まれた一角がある。かっては幅員23-4mの国道を挟んだ向こう側の黒髪1丁目につながっていて、黒髪がわの道筋も江戸期の状態がそのまま残されている。この七曲がりに伯父嫁の実家があった。三十年ほど前にもなろうか、祖母に用事を言いつけられて車で出かけ、すごいクランク状態の道を入ってどうやら行き着いた。「よく入ってきたわねー」と老婦人に吃驚されたが、この道は地図上は国道につながっているが、実際は段差のある行き詰まりの道であった。抜けられると思って入ったのが間違いだった。運転には自信があったが、バックで細いクランクを抜け出るのは至難の業であった。苦闘十数分汗びっしょりで抜け出したが、その間じゅう老婦人ははらはらしながら付き合ってくれた。
 老婦人も亡くなられ、屋敷も人の手に渡ったようだ。行く機会もなく最近の七曲りがどうなっているのか全く知らなかったが、熊本日々新聞が連載する「くまもと地名あらかると」に熊本地名研究会員の福田晴男氏が紹介された。また知識を新にした。福田氏とは熊本史談会でご一緒させていただいている。
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綿孝輯録・巻五十五

2007-11-24 11:04:18 | 歴史
 この巻は「有馬御陳御中小姓以下倍卒迄討死之面々并武功吟味之節、御家中より差出候手負討死面々差出控」というもので、2,418人の名前が書かれている。討死290人で内90人が「馬乗御物頭共ニ」、200人が「歩若党鉄炮之者下々」とある。八代勢は別途記載があり、手負い35人、討死9人とある。
 平野弥次右衛門や尾藤金左衛門の組の手負・討死が多いことに気が付く。金左衛門自らが討ち死にした話は有名であるが、彼の部下もまた多いに活躍した事が分かる。思いがけない人の名前があったり、また小者が手負ったことなどが見える。徳川幕府の威信を掛けた戦いは、初動の対応のまずさが指摘されるが、細川家の人的被害は其の活躍ぶりを物語っている。
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