寛永九年五月廿九日加藤忠広親子被仰付候趣左之通
豊後守(加藤忠正)可申聞覚
豊後守儀は御つめのはしをもけかし、御名字之御字をも被下重畳御懇ニ候間、別而御奉公をも可仕と被思召候処ニ、不届成儀を書廻し候儀曲事ニ被思召候間、切腹をも可被仰付儀ニ候へ共、御穿鑿之上うつけ者にて仕候と被思召候ニ付、命之儀被成御赦免、飛騨国江御預ケ候事
肥後守(加藤忠広)ニ可申聞覚
豊後守儀若輩ニ而今度之儀一分之覚悟ニ而無之、肥後守も内々存儀も可有と思召御穿鑿候処ニ、肥後守不存候通被聞召分候間、常々之御作法も能候ハヽ国を其儘被下置、豊後守をも肥後守ニ可被成御預候得共、近年諸事無作法ニきかせられ候、其上江戸ニ而生候子母共、御代替之砌御理をも不申上国元江遣候儀、公義をかるしめ曲事ニ被思召候、今程 御代替御仕置始ニ候間、重科ニ可被仰付候へ共、此度早速参勤并彼在所仕付いたし、其上豊後守手前早々穿鑿仕、御尋之上有様ニ申上候ニ付、御国を被召上、庄内江被遣、於彼地為堪忍分壱万石被下置候、以上
寛永九年正月廿四日ニ代将軍秀忠が亡くなった。肥後加藤家の消息が綿孝輯録に登場するのは四月廿七日である。その後刻々と切迫した状況が伝えられてくる。自らが肥後入りすることなど、思いも寄らぬ状況であった。
豊後守(加藤忠正)可申聞覚
豊後守儀は御つめのはしをもけかし、御名字之御字をも被下重畳御懇ニ候間、別而御奉公をも可仕と被思召候処ニ、不届成儀を書廻し候儀曲事ニ被思召候間、切腹をも可被仰付儀ニ候へ共、御穿鑿之上うつけ者にて仕候と被思召候ニ付、命之儀被成御赦免、飛騨国江御預ケ候事
肥後守(加藤忠広)ニ可申聞覚
豊後守儀若輩ニ而今度之儀一分之覚悟ニ而無之、肥後守も内々存儀も可有と思召御穿鑿候処ニ、肥後守不存候通被聞召分候間、常々之御作法も能候ハヽ国を其儘被下置、豊後守をも肥後守ニ可被成御預候得共、近年諸事無作法ニきかせられ候、其上江戸ニ而生候子母共、御代替之砌御理をも不申上国元江遣候儀、公義をかるしめ曲事ニ被思召候、今程 御代替御仕置始ニ候間、重科ニ可被仰付候へ共、此度早速参勤并彼在所仕付いたし、其上豊後守手前早々穿鑿仕、御尋之上有様ニ申上候ニ付、御国を被召上、庄内江被遣、於彼地為堪忍分壱万石被下置候、以上
寛永九年正月廿四日ニ代将軍秀忠が亡くなった。肥後加藤家の消息が綿孝輯録に登場するのは四月廿七日である。その後刻々と切迫した状況が伝えられてくる。自らが肥後入りすることなど、思いも寄らぬ状況であった。