津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

爺のときめき

2007-11-21 18:54:28 | 徒然
 楠本健吉の言葉に「本と、酒と、女に使った金は、何らかの形で必ず帰ってくる」という迷言(?)がある。女性に金を使った覚えはないが、本と酒には随分奉仕したように思う。歴史狂いした昨今、本棚の奥に思いもかけない本を発見して、大いに参考になっている事を思うと、「俺も馬鹿じゃーなかったな」と合点したりする。お酒とて若い頃の無茶飲みも、下戸の方より社会勉強をした事は間違いない。赤提灯に数時間居座って、おでんなんぞで角打ちを数杯あおり、議論をし、喧嘩をし、茶碗を叩いて「ちゃんちきおけさ」を歌い・・・良い友を得た。
 そんな友人から久しぶりの電話、「赤提灯で忘年会をしよう」との誘いである。必ず出席を約して電話を切る。メンバーも想像できるし、場所も同様だ。こんな事で胸がときめく。爺になった証拠だなーと頬がゆるんだ。
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御煩之次第之覚

2007-11-21 11:26:18 | 歴史
 細川忠利の絶筆とも言える「右のてくひより手なへ申計ニ候、しに可申様ニハ無之候、可心安候、已上」の書は、あまりにも痛々しい。これは寛永十八年三月十日に、江戸に居る光尚に対しての書状の裏面に書かれている。本文では腰湯をつかったら右手が聞かなくなり舌が麻痺したとある。そんな状態での自筆の書である。三月十七日に忠利は亡くなるのだが、御医師・高本慶宅が記した上記の文書は、同年正月十八日からの忠利の容態が記されている。この年の正月二日には道鑑(足利義輝・子)や宮本武蔵などと杯を交わし、翌日は鷹狩なども楽しんでいる。そんな中でも忠利の病状は深刻なものに進行していることを伺わせる。二月には松井興長に「もしもの事があれば、光尚のことを頼む」と話したとされ、それなりの自覚を持っていたことがわかる。田舎に居ると治療もはかばかしくないので京へ上りたいという希望も、病の進行がそれを許さなかった。
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