中津奥平家では中津城売却の話しが持ち上がっていたが、何だかきな臭い話しが持ち上がっている。はてさて今後目が話せない状態である。これはもうお家騒動ですな。
西川与助の足軽として戦場を走り回り、家老職までに上り詰めた大学介吉重だが、順風満帆でもなかったらしい。綿孝輯録・巻三十に、松井式部宛の忠利の御内書の一部に、次のような記述が有る。
大がくハきつかい仕、中津御前あしく成よし風聞申候、何やらん百姓之事を我等ニ申なとヽ、御ミヽニたち候ものニての事と申候、其分候哉、よき事もあしき事も承候ハて叶ぬ事ニて候間、少もきづかいなき事ニて候、其上其儀ハ大学少もしらぬ事ニて候(以下略)
こればかりでは何のことやらさっぱり分からないが、この年(寛永元年)四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟があり、三齋が機嫌を損じたというのである。大学には係わり合いのない事のようだが、「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。松平宮内とは備前の松平忠雄のことである。備前から道家某宛ての大学の手紙などもあり間違いない事実である。寛永三年九月に「帰参被仰付、先知を被返下」されている。三齋とは寛永二十年まで御目見はなかったとされる。
肥後人のモッコス気質は、三齋のこの頑固ぶりが伝染したものかもしれないなー。
大がくハきつかい仕、中津御前あしく成よし風聞申候、何やらん百姓之事を我等ニ申なとヽ、御ミヽニたち候ものニての事と申候、其分候哉、よき事もあしき事も承候ハて叶ぬ事ニて候間、少もきづかいなき事ニて候、其上其儀ハ大学少もしらぬ事ニて候(以下略)
こればかりでは何のことやらさっぱり分からないが、この年(寛永元年)四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟があり、三齋が機嫌を損じたというのである。大学には係わり合いのない事のようだが、「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。松平宮内とは備前の松平忠雄のことである。備前から道家某宛ての大学の手紙などもあり間違いない事実である。寛永三年九月に「帰参被仰付、先知を被返下」されている。三齋とは寛永二十年まで御目見はなかったとされる。
肥後人のモッコス気質は、三齋のこの頑固ぶりが伝染したものかもしれないなー。
熊本が生んだ日本画家・堅山南風の大きな「肥後ツバキ」の絵が熊本で公開されたのはいつの事だったろうか。二メートル四方ぐらいはあったであろう、大きな画面に沢山の花をつけた「肥後ツバキ」の老木が、ただ一本描かれた大作だった。大きな花芯を持つ熊本独特のツバキである。さきにブログに書いた、昭和49年頃の新聞に掲載された、「肥後六花」についての記事をタイピングし終えた。肥後ツバキ、肥後アサガオ、肥後シャクヤク、肥後サザンカ、肥後キク、肥後ハナショウブ夫々が、肥後モッコスの武士の手により厳格な管理の元に育てあげられた経緯を、この機会を通じて改めて知る事が出来た。良い仕事をしたと思っている。武ばった肥後武士の印象が、改めて感じられるし、また花にかける一途さがいっそう熊本の保守性を思わせる。ほかの地では決して見ることが出来ない花の姿を、一度だけでも御覧いただきたいものだと思う。肥後六花には、端座した裃姿の肥後武士の姿が良く似合う。