当サイトのカウンターをはずして二年が過ぎた。カウンターのトラブルが原因ではずしたのだが、55、000幾つかだった。2年10ヶ月ほどで達成した数字だが、当時はワクワクしたものだ。数が全てではなかろうと思って、再度カウンターを設置する事はしなかった。ブログを初めてどのくらいになるか、一度HDのトラブルで全てのデーターを失ったから定かでないが、現在のブログのスタートは2004/7/24であり、延べ1,077回の書き込みをしている。最近気づいた事だが、毎日見ていただいている数は150~200位である。カウンターを設置していると150,000くらいはカウントしているだろうと思われるが、それは虚像でしかない。150~200人くらいの皆様に、如何に情報を発信するかに尽きる。あるイベントの為に情報発信を企てているが、延べでは5,000~6,000のカウントになるだろうが、実際は200人ほどの方が対称だという事だ。しかし、その200人が大変大事なのであって、誠実に情報発信をしていきたいと考えている。
細川家家臣三宅氏の召出しに係わる資料として、「十二月九日三宅藤右衛門・新兵衛・左京ニ御合力米被下候留書」というものがある。
覚
一、米九拾石 三宅藤右衛門
一、同三拾六石 三宅新兵衛
一、同拾八石 三宅左京
右之合力米毎年可相渡者也
寛永拾九年十二月九日 御印
奉行中
綿孝輯録編者小野武二郎は、「考ニ、三宅藤右衛門兄弟今年御国江被召呼候なるへし」と記している。 (綿考輯録・巻60-P242)
細川忠興
|
明智光秀---+--ガラシャ
|
+---女
|
出雲---弥平次(明智左馬助)---藤兵衛---+--藤右衛門(平太郎家)
|
+---新兵衛(新十郎家)
|
+---左京 (?)
明智左馬助は明智光秀の娘婿だと明智資料は伝えるが、明智氏に関する各資料の齟齬は甚だしい。左馬助の最期についてもはっきりしない。(それはさておく)。ガラシャ夫人がその将来を案じたという甥の藤兵衛は、細川家に在ったが慶長五年寺澤氏に仕官している。天草富岡城代を勤めたが、寛永十四年天草島原の乱において戦死した。時の藩主はガラシャの子・忠利であるが、忠興の意向もあっての召出しであったろう。左京の消息は覗えない。藤右衛門、新兵衛家共に重職を勤めた。
覚
一、米九拾石 三宅藤右衛門
一、同三拾六石 三宅新兵衛
一、同拾八石 三宅左京
右之合力米毎年可相渡者也
寛永拾九年十二月九日 御印
奉行中
綿孝輯録編者小野武二郎は、「考ニ、三宅藤右衛門兄弟今年御国江被召呼候なるへし」と記している。 (綿考輯録・巻60-P242)
細川忠興
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明智光秀---+--ガラシャ
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+---女
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出雲---弥平次(明智左馬助)---藤兵衛---+--藤右衛門(平太郎家)
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+---新兵衛(新十郎家)
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+---左京 (?)
明智左馬助は明智光秀の娘婿だと明智資料は伝えるが、明智氏に関する各資料の齟齬は甚だしい。左馬助の最期についてもはっきりしない。(それはさておく)。ガラシャ夫人がその将来を案じたという甥の藤兵衛は、細川家に在ったが慶長五年寺澤氏に仕官している。天草富岡城代を勤めたが、寛永十四年天草島原の乱において戦死した。時の藩主はガラシャの子・忠利であるが、忠興の意向もあっての召出しであったろう。左京の消息は覗えない。藤右衛門、新兵衛家共に重職を勤めた。