津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

右腕痛・・・

2008-06-27 12:17:22 | 徒然
 雨の中を傘をさして歩いて、右手で持つのに耐えられなくなって、左手に持ち直す。処が右腕が固まって下に降りなくなった。激痛とまではいかないが、なんとも不愉快な感じである。毎日沢山の資料をタイピングしているが、どうもそのせいだと思われる。右腕の痛みが慢性化し、おまけに腕の付け根に痛みが出始めた。
 腕をぐるぐる廻したり、按摩をしたりしていると、奥方が怪訝な顔をする。本当の所は話せないではないか。すぐ「歴史狂」を咎められてしまう事は、目に見えている。奥方の「お昼よー」の声が掛かったが、素知らぬ振りをして参らねば成らぬ。しかし・・痛い。
なんだか右の脇腹の方迄痛くなってきた。職業病(?)と相成った。
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合点のいかぬこと(Ⅱ)

2008-06-27 08:50:31 | 歴史
 細川藤孝と将軍義昭の寵臣・上野清信(中務少輔)の不和の原因は、永禄十二年の御所造営の現場が発端である。惣奉行を勤める上野清信の手の者と、藤孝甥・荒川少兵衛輝宗の手の者との喧嘩である。藤孝が収拾に奔走するが、義昭は清信の讒言により「藤孝君を疎ミ給ひ、終にハ可被誅かとの趣にて、御館に御蟄居被成候、此時将軍家より信長江細川誅伐の命を下さる」と綿孝輯録は記す(巻二・p47)驚いた信長は諫言、義昭も「理に服し」たという。

 「義昭公清信を愛せられ候訳は、清信に女子有、甚美にして義昭公是を御寵愛、其上男子なけれはとて、一乗院におはしましける時よりの寵童堀孫八郎と云うものを清信が養子とせらる、後上野大和守秀政と云」(巻二・p48)

                 足利義昭
                    |
 上野清信(中務少輔)---+--●
                 |   堀孫八郎
                 +==大和守秀政----→(細川藩士・郡家)
                        |
       槙嶋玄蕃頭昭光(云庵)---●

 この様な図式が得られるのだが、綿孝輯録の記述は「清信と秀正を混同している」と考えるのが確かだろう。清信は「義昭公御法体無程病死」とする「室町日記」が真実のようだ。そうすると「合点のいかぬこと」で書いた、(Ⅰ)の項が誤りであろう。---これでようやく合点がいくというものだ。---
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